Knowing nothing is better than knowing things by halves.
Never trust any second hand information about EMS in the web.
There are too many pedants in the web who believe themselves to be the perfect masters of the principle of the EMS. But, in most cases, they only regard my EMS just as an analogue of the Amici’s Prism and never understand the real meaning of it.
It is a shameful dilemma for them to deny the originality of the EMS, while appealing themselves to be pioneers or something by attributing the principle of the EMS to the traditional optical theory, as if it is a “scoop” or something.
人はどうやら二次情報や三次情報の方に、より耳を傾ける傾向があるのかも知れない。 しかし、あらゆる分野の情報をwebに求めてみると、その大半は全くの出鱈目か、信憑性を装った不完全なものである。 前者のように、誰が見ても出鱈目がバレているのは、不快ながらもむしろ罪は軽いのだが、問題はむしろ大半を占め る後者の情報だ。後者の情報は、社会への害毒だ。
しかし、なぜストレートに一次情報を取りに来ない方が多いのだろう。手を受けて待っているのに。 医者がいても、 側にいる看護士の方が話しやすいということだろうか。
“Knowing nothing is better than knowing things by halves.” という英語圏の諺があるが、EMSのオリジナリティ を否定する衒学者の方々には肝に銘じて欲しい言葉だ。
15年以上前に某国立大学の名誉教授の先生(光学)とFAXで長い文書を一定期間に渡って応酬したことがあった。この 先生も御多分に漏れず、EMSは単なるアミチアナログという短絡的なご理解であって、ミラーの間隔を調整して目幅調整が出来ること等を理解していただくのに随分と骨を折った。 しかし、最後には兜を脱がれ、鳥取の当方まで見学に見え、自分用のEMS-BINOも注文された。 最後には理解して認められるところが本物の学者先生の偉いところ、ただの衒学 者とは大きな違いだ。
EMSを既存の原理に帰着させ、そのオリジナリティを否定するのは衒学者の一般的な傾向であり、その意見を発表され るのも自由ではあるが、実は、EMSの新規性を公然と否定してみせることで、自らの知識?をひけらかし、つまりは 自らの新規性をアピールしている姿は大きな“矛盾”であり、私の目には実に滑稽に映るのである。