足利先生からのメール

 母校の遷喬小学校の門前には蘭学者の稲村三伯の記念碑が立っている。声が届く程の距離に三伯の生誕地が あるからだ。目立つことの少ない山陰にあって、郷土が誇れるものの一つである。 ただ、江戸時代に歴史的偉業を成し遂げた稲村三伯先生も、お会いしたこともなく、私にとっては遠い存在に過ぎない。

  自分が実際にかかわった方の中で、尊敬する人として真っ先に目に浮かぶのは、足利先生だ。  足利先生には高校時代に数学でお世話になったが、私は決して良い生徒ではなく、先生のテストで一度だけ記念すべき 「0点」を採ったことが今でも忘れられない。当時、器械体操に没頭していた自分には、テストに向かうのがどうでも良い 事のように見え、敢えて白紙で提出したのだった。 決してどなり声を揚げるような先生ではなく、テストの結果に心配して 部活をしている私を訪ねてくださり、お陰でその後はまじめに勉強した。

 先生は、象のような立派な体格ながらいつも三つ揃いの正装に身をかため、物静かで生真面目を絵に描いたようで、また当時は珍しかった縁なし メガネと懐中時計から、生徒は先生を陰で”天皇”と呼んでいた。 いつも廊下をゆったりと威厳を持って歩き、それでいて 尊大な感じはないのだった。 しかし、悪がき共が先生に付けたあだ名の真意は、そんな先生を揶揄したものだった。

 先生は店のお客さんでもあった。20年ほど前に最愛の奥さんを亡くされ、その後来店される度に、「貞淑な妻でした。 家内が逝ってから、今日で*千*百*十*日目になります。」と言っておられた。

 私がパソコンを使うようになってから1年ほど経った頃に先生にパソコンを勧めた。 当時90歳だった先生はパソコンを購入され、最初の手ほどきを、今度は私が先生にさせていただくことになった。

 現在でも鳥取市のご自宅で数学を教えておられる先生も、ダブルクリックがうまく出来ない等、最初はやや難航され、 もう少しのところでやや体調を崩され、パソコン講座を一時中断した。 さずがの先生も諦めてしまわれたのかな、と思っていた ところ、1年近く経った頃に電話をいただき、講座を再開、完了することが出来たのだった。

 足利先生は今95歳、現役時代から気高郡(奇しくも町は異なるが、蜂谷氏と同じ郡)の実家と鳥取市の家との往復を 一日も欠かさず続けておられる。子供さんは全て立派に自立しておられ、自分自身も今だに自立した生活をしておられるのだ。

  そんな先生から久しぶりにいただいたメールをご紹介する。

足利先生からのメール:

 先日はお便り有難うございました。お父様始め皆様お元気のご様子、大慶至極に存じます。 私こと20年一日の如く愚直なまでに同じ動線を描いて暮らしています。
鳥取ー**間が少し長い廊下の様な感覚になりました。
 あなたの旺盛な研究心には唯ただ頭の下がる思いです。 ご健康にて益々ご研鑚の程祈り上げます。

 思えば我が生涯において誠に有難い幾多のご厚誼を戴きました。深く感謝致し居ります 向寒の砌ご自愛の程祈り上げます。

  もったいないメールです。

余談だが、足利先生は足利尊氏のれっきとした末裔であられることを、最近知った。

クラウディア(Κлавдия)奇跡の愛

ロシアのクラウディア(Κлавдия)さんの話を ご存知ですか。
 1998年に、地元の日本海テレビが制作した「クラウディアからの手 紙」というドキュメント番組が放映され、ギャラクシー賞を受賞しています。

  終戦当時、朝鮮のピョンヤンで妻と幼い娘と平穏に暮らしていた一民間人、蜂谷 弥三郎氏が無実のスパイ容疑でソ連官憲に逮捕されました。ちゃんとした裁判も経 ず、ピストルで脅迫されながら無実の罪を認めさせられた蜂谷氏は十年近くもの間、極寒 のシベリアの牢獄で時には生死の境をさまよいながら地獄の体験をさせられました。

 刑期を終えて釈放された後も監視の目は緩まず、連絡も帰国の望みも絶たれた状況 で、蜂谷氏はソ連の市民権を取得することを決意し、同様に過酷な人生を歩んでいた クラウディアさんと出会い結ばれます。 クラウディアさんは、富裕な家に生まれながら 継母に捨てられ、数奇な運命に翻弄されながらも独学で自立の道を開きました。しかし、 職場の上司に横領の罪をなすり付けられ、十年もの若い日々を牢獄で過ごした方でした。    

  ソ連が崩壊し、蜂谷氏の妻が日本で51年間再婚もしないで娘を育て上げて待っていたことを 知ったクラウディアは断腸の決断をします。クラウディアは言いました。「他人の不 幸の上に自分の幸せは築けない。弥三郎の大切な人は、私にとっても大切な人。私は 彼との37年間の思い出で生きていける。」

 蜂谷氏は現在、鳥取県の気高町で日本の妻と暮らしています。
 このたび、支援者の努力で、蜂谷さん了解のもとで、クラウディアさんを日本に招待するこ とが曲折を経て実現し、今月の16日の歓迎パーティーに私も参加することが出来ました。

 歓迎パーティのことは、英語サークルの集まりの時に仲間の私語を断片的に聞いた私が、 「もしかして、それはクラウディアさんのことではないですか。」と尋ねたことに始まり、 私も参加させていただくことになった次第です。

 鳥取市でのクラウディアさん歓迎会は、ホテルの1室を借りた、30名ほどのこじんまりとした 温かい会でした。 マスコミも事前の報道を自粛してくれたようで、興味本位の方は集まらず、皆心から クラウディアさんと蜂谷さんを歓迎したい、”すばらしい人たちに近付きたい”一心の人たちばかりが集まったようでした。

 蜂谷さんは、85歳の年齢ながら、凛とした背筋で直立したまま、15分以上にも渡って挨拶の言葉を 述べられました。 クラウディアさんの献身的な愛に対する感謝のみならず、かかわってくれた方々への 感謝の言葉を真摯に漏らさず述べられ、感銘を受けました。

 クラウディアさんは、「弥三郎さんが長い出張から帰って来ただけのような気がする・・・」と、久しぶりの再会の感想を述べられ、聞きながら目頭が熱く なりました。 また、「こういうことになるのなら(日本への招待)、弥三郎さんにもっと日本語を習っておけば良かった。 私が知っている唯一の 日本語、”ありがとう”で締めくくります。」と締めくくられた。

  パーティはビュッフェ形式でしたが、私は食事はそこそこにクラウディアさんや蜂谷さんと少しでも言葉を交わすチャンスを 探りました。 歓迎会には中2の娘と高2の甥が同伴しましたが、クラウディアさんに花束を贈呈する名誉を賜りました。   娘が花束をクラウディアさんに渡した後、娘は握手を求めましたが、結局クラウディアさんはそれに気付かれませんでした。 代わりに、最期に写真に入ってもらいました。(上の写真;左から二人目がクラウディア、その右に私の娘)

  蜂谷さんは最初に私共のテーブルに来てくれ、少し会話を交わすことが出来ました。「戦後教育を受けていない私は、こちらに帰ったら 異端者になってしまった。国粋主義者のように思われる。」と冗談まじりに言っておられました。 「万が一にも日本に帰れる日が来るかも知れない。その日のために 日本語を忘れてはいけない。」と実行した訓練の一つが、教育勅語を書くことだったそうです。 しかし、どこに監視の目があるか 分からない状況下で、書いた物はその日の内に焼却したのだそうです。 大正7年生まれて、私の父より1歳上でしたが、 足腰も頭脳も父よりもはるかにしっかりとしておられました。 未経験だった理髪の技術を拘束下で見よう見まねで覚え、命を 拾った蜂谷さん。 砥石の無い環境で理髪用の刃物を独自の方法で研いで見せ、認められた蜂谷さん。その時、2枚の硝子片 を互いに砂擦りし、磨りガラスを作り、それを砥石に代用し、見事に刃研ぎに成功したのでした。

  孫さんが勤めている役場の上司の方の挨拶の中で、「孫さんがいつも頭髪を大変綺麗に整えているので、聞いてみたら、お爺ちゃんに 刈ってもらっているとのことでした。・・・」とあり、孫さんや娘さんとの温かい関係も見えて、安心しました。
  他の方の挨拶も印象に残っています。蜂谷さんが鳥取大学で講演をされたとき、男子学生の一人が涙を流しながら立ち上がり、 「蜂谷さんは素晴らしい方です。」「蜂谷さんは素晴らしい方です。」と何度もそれを連呼するばかりだったそうです。     日本の若い人もまんざら捨てたもんじゃないようです。

  クラウディアさんの所には、入れ替わり立ち替わり参加者が取り巻き、写真を撮ってもらっていました。 私は、どうしてもクラウディアさんに伝えたいことがあり、チャンスを待ち、結局会がお開きになった直後にそのチャンスを 得ました。

  私のロシア語は20年以上前に少しかじった程度で、出来の悪い中学生の英語レベルですが、準備をしていた次の言葉を伝えようとトライしました。
Я люблю Вас, не потому что Вы послали Ясаберо назад Японии, но потому что
Вы поддержали его.

 押し付けがましいですが、ロシア文字等について一言。(Я)は”ヤー”と読み、第一人称単数(英語のI)です。 (люблю)は”リョブリョー”と読み、英語のloveの一人称形です。英語の動詞の人称変化は”s”が付くか付かないか ですが、ロシア語ではほぼ人称ごとに変化します。名詞も男性、中性、女性名詞があり、それぞれが異なった語尾変化をし、初学者をおののかせます。 代わりと言っては何ですが、面倒な冠詞はありません。また、発音も極例外を除くと極めて綴りに忠実で、私のような者でも 例え意味が分からずとも大体の発音で読むことは出来ます。  (Вас)は二人称の格変化形ですが、”ヴァース”と読みます。Вは英語のВではなく、英語のVに相当します。リョブリョーの (б)が大体英語のbに相当します。(не)は”ニェ”と読み、英語のnotに相当します。(потому что) は”パタムーシュトー”と言い、英語のbecauseに相当します。(п)は英語のpです。 英文にすると以下の事が言いたかったのです。
(I love you not because you sent Yasaburo back to Japan, but because you had supported him.)
  「私があなたを愛するのは、弥三郎さんを日本に帰したからではなく、弥三郎さんを支えていてくださったからです。」と言いたかったのです。  後は通訳の方の助けを借りましたが、さらに、「あなたが献身的に弥三郎さんを愛してくださったことだけで、私たちがあなたを称賛する十分な理由があるのです。」 というような内容を伝えました。 中途半端な事を言ってクラウディアさんを傷付けてしまうことを恐れましたが、私の目を見て聞いてくれたクラウディアさんには 私の気持ちは伝わったと、勝手に解釈しています。 そして最後に、「ぜひ来年も再来年もお会いしたい。」と付け加えました。
  クラウディアさんからの言葉は直接私に語られ、私が理解できると通訳の方が思ったため、訳されず、私もその瞬間は何となく 理解できたような気がしたのですが、後に残らず、失敗しました。^^;

  会場で売っていた島根県江津市の村尾靖子さん著の”クラウディア奇跡の愛”を4冊買い、娘と甥に1冊ずつ与え、私の2冊を含めたそれぞれに蜂谷 さんとクラウディアさんのサインを頼みました。 会もお開きになっていたし、ハードなスケデュールでお疲れと思い、 当然お名前だけいただこうと思っていたのですが、クラウディアさんも蜂谷さんもその本ごとに、あるいは依頼者ごとに違う文章を 律儀に考えながら書いてくださいました。 その一つをここに紹介します。

随分と時間が開きましたが、その後に知り合ったロシア人女性のイリーナさんに、クラウディアさんの手書き文字の テキスト化と和訳をお願いしましたので、そのまま追記いたします。(2014年9月22日)

”Пусть всегда и везде сопутствуют удача и любовь” Клавдия. 16.11.2003 г.

「どんな時も、どこでも運が良くて、愛でいっぱい人生になるように」

  本のタイトルに含まれた”奇跡”という言葉には、非常に多くの意味が込められているように思います。
  逆風の中を37年間もの間、我が身の危険を顧みずに蜂谷さんを守り支え続けたクラウディアの愛、51年もの間蜂谷さんを待って娘と家を守り通した日本の妻の 久子さんの愛、それらが奇跡に値する尊さであることは疑いの余地もありませんが、私には、まだまだいろんな事が思い浮かぶのです。
  一つは蜂谷さんの、極限の逆境を生き抜いたサバイバル能力の奇跡です。私などは、とても足元にも及びませんが、 砥石も無いのに刃物を研いでしまった蜂谷さんの土壇場の知恵と執念には、手ノコとヤスリからEMSを作って来た私は共感以上の物を感じる のです。
  二人の妻から同時に至極の愛を受け、しかも周りから非難されない人、これも奇跡に値するでしょう。 夫婦3人という言葉が、涙と称賛以外は入る余地の無い 崇高な愛によるものであることは、本を読めば分かります。

 凡人が複数の妻を持つと最後の妻の愛すら得られないことも多かろう。
  蜂谷さんは運命に翻弄されて過酷な人生を送られたが、獰悪な砂塵が吹き荒れる外界の存在があったからこそ実現した 奇跡の愛なのかも知れない。

EMSの種明かし

それでは、お約束通り、EMSの種明かしをさせていただきます。

まず、EMSの光路は、立方体を3つ直列に繋いで出来る正四角柱の1側面の一つの頂角 から同じ側面の対角に至る最短路です。 ただし、経路は他の3面を通るものとします。(1図: 赤い線が光路、青い線がそれぞれの反射点での反射面の法線)

 

 

EMSを手前から見た時、視線に垂直な平面に投影した第1反射光線(2つの反射点を結ぶ直線)の傾斜角を α とすると、tanα =1/√2(白銀比)ですので、規格 紙の対角線の傾きと同じです。このαは、x-y調整ノブの配置の位置角にも重要な意味を持ちます。

さらに、β=2α こそ、EMSのユニット間のねじれ角で、cosβ=1/3 というシンプルな数字で表されます。

α、β の2つの角度がEMSを決定する重要な要素ですが、これらの角度は、B5,A4等の規格紙から完璧に再現できます。

Woo Pinn / ウーピン

I’d like to share a true story with you that has been handed down from my grandpa to my father and then to me. It’s a story of a man who was a very good customer of my grandfather’s. At that time my grandfather dealt in watches, jewelry and phonographs and whenever a new recording was released the man would be the first to order it.

The customer was a very considerate and refined middle aged gentleman living alone. He had a profound knowledge of music and he usually called the shop for delivery just before noon. All of the staff used to scramble for this delivery because he would always invite the staff member into his house to listen to the new recording and then realizing the time, would ask the lucky employee to lunch.

He always had everything delivered. All the neighborhood shops were happy to come to his home and were always treated the same way. However, no one really knew what he did for a living.

One day the kimono shop owner asked him. “Do you mind telling me what it is you do for living?” He went to the closet and took out a wad of ten-yen bills, which today would be the equivalent to ten thousand yen bills. He then said, “Watch.” And lit the note. Before the note burned completely he put it out and gave the remaining half to the kimono shop dealer. “This note is so perfectly made no one has ever detected it to be counterfeit. “He then instructed the dealer to take the half a note to the bank to exchange it for a new one.

The shop owner rushed to the bank and was amazed when the bank, asking no questions exchanged the damaged bill for a new, genuine one. He immediately went back to the man and asked how he had done it. He answered, “A man called Woo Pinn made the counterfeit bills in Korea. If you send him 100 yen he will send you back 200 counterfeit yen. This is how I have such a luxurious life style without working.” The next day, the kimono shop owner handed him 100 yen.

But after a few months when the money still hadn’t arrived, the shop owner pressed the man for the money. He replied, “The Genkai Channel is too rough to sail at this time. Please be patient a little while longer.” Finally the kimono shop owner could no longer pretend to himself, he had to admit that he had been swindled out of 100 yen! He knew he couldn’t go to the police because he, himself had been involved in the crime.

The man was eventually arrested for swindling and he went to prison for a long time. However this was not the end of the story.

By the time he got out of the prison he was an old man. Soon after his release he became blind. The man seemed to have given up his life of crime and he sometimes had a visitor. One day he said to his visitor, “I have done a lot of wicked things in my life and have cheated many people, but from now on I am going to spend the rest of my life peacefully.” He groped around in his closet and came out holding several gold bars. He then said, “These are the last of my ill gotten gains and since I have no way to make a living, I will have to part with them. Would you buy them for whatever price you think they’re worth?”

The visitor was extremely pleased with himself until which time he found that they weren’t pure gold bars but gold plated lead bars. Of course the man was arrested but the police found that he had committed no crime. When the police questioned him the man replied, “I never said it was gold, just that it was all I had left from my previous life of crime.”

 テレビが我が家に入ったのは私が小学校4年か5年の頃なので、それまでは子供たちは父の話を楽しみに 聞いたものでした。   上の話は、祖父から実話として語り継がれて来たものですが、今となっては、どこまでが事実で、どこが脚色されてい るのか知る由もありません。 ただ、少なくとも登場人物はウー・ピン氏以外は全て実在した人たちです。80年も昔の話であるため、当事者は全てずっと昔に故人に なられているので、公開しても差し支えないと判断いたしました。

 祖父は、時計貴金属の他、その時代の先端の物はほとんど何でも取り扱いました。”ラヂオ”(当時はそう綴った)も取り扱い、納品に行くと地域の人たちが大勢集まったと聞いています。 寒い冬でも、電波が良く入るようにと、その家の人は障子を開け、「中に小人が入っとるだらあか?」と言う見物客あり、また雑音が 入ると「これはアンテナに雲がこすれる音だで。」と言う者もいたそうです。

これは、そんな時代に実際にあったお話です。   当時、祖父は蓄音機やレコードも扱っており、そのお客の中に、一人の初老の紳士がいました。 新しいレコードが出ると、その紳士は決まって昼前に電話を入れ、配達を依頼するのでした。 店の奉公人が配達に行くと、 レコードをかけさせ、しばし目をつむって耳を傾け、頷くと、いつも値切ることなく現金を支払い、時計を見ると、「ああ、もう昼だね。 食事をして行きなさい。」と言い、その幸運な奉公人は豪華な食事を振る舞われるのでした。だから、その紳士への配達は奉公人たちの間でいつも奪い合いに なっていました。

  近所の呉服屋さんも同様の恩恵に与っていたそうで、そこのご主人はその紳士の人柄に惚れ込んでいました。 ある日、その呉服屋の主人は思い切ってその紳士に聞きました。「よろしければ、お仕事をお聞きしても良いですか。」

  すると、しばらくの沈黙の後、その紳士は押入から十円札の大きな札束を出し、中から1枚抜き取ると、それに火を付けたのです。 それが半分ほど燃えたところで、慌てることなく火を消しながら言いました。「これは偽札だが、非常に良く出来ていて、まだ一度も見破られた ことはない。嘘だと思ったら、この燃えさしを銀行に持って行ってみなさい。」

  言われた通りに、その呉服屋さんがそれを銀行に持っていくと、行員は全く疑うこともなく新札と交換してくれました。 呉服屋さんがその新札を手に紳士の所に戻ると、その紳士は言いました。 「この偽札は、朝鮮でウー・ピンという者が作っていて、百円を渡すと、その偽札を二百円くれるのだ。私が働きもせず、こうした 暮らしがしておれるのも、これのお陰だ。」

  完全に信用してしまった呉服屋の主人は、翌日その紳士に百円を渡しました。  しかし、2ヶ月経っても、3ヶ月経ってもお金は返りませんでした。 痺れを切らした主人が催促すると、その紳士は その度に「今、玄界灘が荒れていて、船が出せないので、もうしばらく待ってくれ。」と言うばかりでした。   そうして、その主人はやっと騙されたことに気付いたのでした。

  やがてその紳士は警察に捕まりました。 そして長い刑務所生活から戻ると、もう老人になっていました。 そして出所後間もなく、 失明してしまいます。 しかし、話はこれで終わりではありません。

  その紳士には、もって生まれた魅力があったようで、失明しても、人が自然に彼を訪問するようになりました。 彼は訪問者の一人に言いました。「わしも長い間、人を騙して来たが、こうして明かりも失った今、余生は平穏に暮らしたいと 願っている。これは、最後まで持っていようと大切にしていた物だが、生活のためには手放さざるを得ん。」と言いながら、 手探りで押入から何かを取り出しました。
 それは金色に輝く数本の延べ棒でした。「いくらでも良いから、あんたが思う値段で買い取って くださらんか。」と言われた訪問者はにんまりとしながらそれを言い値で買い取りました。 ところが、それは鉛に金メッキをした 物でした。

  その盲目の紳士は警察の尋問に答えて言いました。  「わしは、これが金だとは一言も言っておらん。ただ、長い間大切にして来た物だと言っただけじゃ。」    確か、この件についてはこの紳士にお咎めはなしだったと聞いています。^^;

80年も昔、テレビも無い頃、しかも大都会ではなく、地方都市で、何ともあざやかな詐欺事件ではありませんか。^^;

Folding Wheel Chair / 折り畳み式車椅子

(In English; 6/16, 2014)

Folding Wheel Chair

I would like to share with you an unforgettable experience in my work.

It was seven or eight years ago when I received a phone call from the first customer asking “Do you have an “EMS-L” in stock? I would like to buy it at your shop and take it home.” And he asked in the end, “Is your shop on the ground floor? And can I get into your shop in the wheel chair?”
I simply thought at that time he had a wound on his leg or something.

A few days later, a car stopped in front of my shop. I immediately thought it must be he, and went up to the side of the car to find I was right. Alas!! he drove all the way from Kobe in the specialized car with his hands only!

Then I guided his car to my parking space, and I will see what I am really amazed by. The guy stopped his car at the right place and then fully reclined his back rest by 180 degrees and leaned back to seize a folded wheel chair on the rear seat and lifted it to put on the ground just by the opened car door and quickly unfolded the wheel chair just like an umbrella. Then he bundled his legs by a towel and he took his legs just as if they were a luggage and into the wheel chair, and he finally got into the wheel chair all by himself.
What I did was only to take his FS102 Telescope in the case and accompanied him in the wheel chair to my shop.

In my shop, he set up the telescope on the tripod at the lower position with my assistance, and he attached the EMS-L to his telescope and watched the upright and vivid image of the nearby landscape for a while, and saying ” It is nice!!.”, he finally decided to buy it.
Having a pleasant conversations after that, and I can never forget his last word he murmured with a sigh ,”I was right to come!”

It was just after the Hanshin-Awaji Earthquake, and I thought he was the victim of it, but he wasn’t. He told me he had a car accident before the catastrophe and he was on the hard rehabilitation in the hospital when he met the earthquake. He was paralyzed from the chest down and I knew he had gone through unimaginable despair and painful rehabilitations.

Since then I take this story to my heart to keep up my motivation ever to proceed.

ずっと前からお話したいと思いながら、きっかけを逃して来た話をご紹介します。

もう7,8年前になりましょうか。 私の店に次のような電話が入りました。
「EMS-Lを店頭で確認して求めたいのですが、現物はありますか。」という問い合わせでした。
最後に、「店は1階にありますか。車椅子で入れますか。」と聞かれましたので、問題ない旨をお伝えしました。   その時は、脚に怪我でもされたのかな、と思っていました。

数日後、店の前に1台の車が止まりました。 直ぐにあの電話の方であると直感し、店を出て車の前に立つと、 やはりその方でした。 何と、その方は、神戸から特別仕様車をたった一人で、手だけで運転して見えたのでした。

そのまま私はその方を裏の駐車場に導きましたが、私が本当に驚いたのは、その後のことなのです。  その方は、車を止めると、自分のシートを180度倒し、反り返って後部座席に置いていた折り畳み式の車椅子を腕の力だけで持ち上げると、 運転席の直ぐ外にそれを組立て、あれよあれよと言う間に自分の両脚をタオルで縛り、まず両脚を荷物のごとく先に車椅子に納め、 完全に自力で車椅子に乗り込まれたのです。 私がした事と言えば、この方の自作のケースに納まったFS102鏡筒を持って店までお供をした だけでした。

店では、私も手伝って低いポジションにFS102鏡筒をセットし(確かカメラ三脚を使用した)、EMS-Lを装着され、ウィンドウ越しの景色で合焦や 見え味を確認され、大きくうなづいて購入を決断されました。 それからしばらく歓談して、帰り際に、「来てみて良かった。」と しみじみとため息のように言われた言葉が忘れられません。

阪神淡路大震災の直後でしたので、被災によるお怪我かと思い、お聞きしてみたら、その前に交通事故に遭われたのだそうで、 震災は、病院の中で闘病中だったとのことでした。胸から下が全て麻痺されたこと、想像を絶する体と心のリハビリがあったっことを知りました。

以来、何かと理由を付けて行動を保留し勝ちな、私自身への戒めとして、私はこの方の事を心に深く刻んでいるのです。

悪役俳優、Bolo

昨晩、久しぶりに”燃えよドラゴン(Bruce Lee 主演)”がテレビで放映されました。
悪役で登場したBoloの若い姿が懐かしく、彼との希有な出会いを思い出しました。

写真は、1989年に鳥取市で開催されたボディビルアジア選手権のお別れレセプションで撮影されたものです。   鳥取市への同選手権の誘致は、実質上の主催者兼、選手であった小山裕史(やすし)氏(アジアチャンピオン)の世界的な 知名度と並外れた努力と、ボランティアの協力で実現したものです。(同年開催の世界おもちゃ博覧会との関連で市の後援が得られたのも幸運でした)   当時氏のジムのメンバーであった私も通信文の英訳(当時はFAX)や通訳で協力しましたが、大阪空港で各国の選手団を出迎えた ことが、今でも鮮明に思い出されます。

数台のチャーターバスに各国の選手団を乗せるのですが、予算の関係で1国1台というわけには行かず、到着時間が大きく異なる 二国のチームを1台のバスで送るのに、大変な苦労をしました。 (韓国選手団の遅れでイラクの選手団を3時間待たせないといけないはめになった 話は別の機会にします。)

イラクと韓国のチームをやっとの思いでバスに乗せ、これに乗ってやっと一緒に鳥取に帰れると思いきや、 本部からの指令で、私はその後に到着する台湾とパキスタンの選手を乗せて帰ることになったのです。

台湾とパキスタンの選手団をバスに乗せると、緊張がやっとほぐれ、最後部で隣に座っていたパキスタンのヘビー級の選手とずっと歓談 して帰りました。 その時、台湾チームの中に私たちの会話の魚になった人が一人いたのです。

私    : 「Bruce Leeの”燃えよドラゴン”(Enter the Dragon)を見たことがあるかい?」
パキスタンの選手:「あるけど・・・?」
私    : 「あの人、あの悪役に似ていない?」
パキスタンの選手: 「本当だ、そっくりだ!」

といった具合で、互いの膝を叩き合って大いに笑ったのです。

その話題の主は、台湾のチームリーダーの一人でしたが、喋らず、笑わず、闘争的な体型に乗った牛のごとき首には太い金のネックレスが 巻いていました。 ただならぬ殺気を感じ、まさに”歩く凶器”の印象でした。^^;

それが本物だったことが分かったのは後日のことでした。 本物と分かってからも、しゃべらないし、名刺もくれないし、写真も撮られたくなさそうな雰囲気で、全く取り付く島もない 感じで、結局、香港の俳優だと思っていた彼がどうして台湾のチームリーダーだったのか等も聞けず終いでした。   上は、「絶対に笑わせて見せるから、見てなよ。」と同僚のボランティアスタッフに言って、撮らせた写真です。彼が最初にして最後に見せた笑顔です。    ともかく、地で行く華麗な悪役俳優でした。名刺はくれなかったけど、ボランティアスタッフ用の私の赤い法被の背中に、 大きな字で”BOLO”と書いてくれました。

ともかく、地で行く華麗な悪役俳優でした。

(写真を勝手に掲載したので、殺しに来るかな?)

Red- Green Test

RG rays in the eye

Red-Green chart

私たちの眼は、生体として、光学器械が真似の出来ない 生理的な機能を備えていることは事実ですが、純粋に光学的に評価しますと、 高級品ではないことを認めざるを得ません。

眼科での眼底写真の撮影等のために、散瞳剤(瞳を広げる薬)を点眼されて、しばらく苦労された経験がおありの 方も多いと思いますが、私たちの眼は、絞り開放では、まったく使い物にならないほどの甚大な 球面収差を持っています。

また、色収差も甚だしく、この性質を利用すると、眼の微妙なピントのずれを比較的客観的に 検知することが出来るのです。

上のレッドグリーン指標でご自身の眼を試してみてください。(まずは単眼で検査した方が分かりやすいでしょう。)黒い二重線が赤のバックと緑のバックで比べて、 どちらがはっきりと見えるでしょう。輝度やコントラストの差に幻惑されないように、線(隙間)のシャープネスだけに着目します。 両方とも大きくぼかしてしまうと、区別が出来なくなります。

また、特に初めての方は、ピントの前後をセットにして、レッドとグリーンのシャープネスが逆転する様子を見ないと分かりにくいかも知れません。 近視のメガネを掛けている方は、メガネを外し、遠点(はっきり見える一番遠い距離)付近でチャートに微妙に近付いたり離れたりして見ると レッドとグリーンの見え方(シャープネス)が逆転するのが分かるでしょう。

読書距離で見て、明らかにグリーンの方がはっきり見えたら、老視の赤信号^^;です。 (近視の方は、メガネを掛けて見てください。)
指標を拡大して3m以上離れて見た時に 赤い方がはっきり見えたら近視です。 また、読書距離で両方ともはっきり見える方でも、距離を近付けて行きますと、調節限界付近 からグリーンの方がレッドよりもはっきり見えるようになります。
また、3m以上離れて見てグリーンの方が極端にはっきり見える方は、近視のメガネの度が強すぎるか、遠視である可能性があります。
横線(縦線)だけがはっきり見えたら、乱視の疑いがあります。

波長の長いレッドは波長の短いグリーンよりも焦点距離が長いので、それぞれの結像位置が微妙に異なることが、この検査を 成り立たせている理由です。(上の図は、弱度近視の状態です。)

眼の屈折に関与する角膜、房水、水晶体、硝子体の組み合わせは、残念ながら色収差の軽減に対する(神様の^^;)配慮は全く見られません。 もっとも、明るい所では縮瞳(瞳が小さくなること)して極めて小口径であり、散瞳するのは暗い時で、眼の視力も落ち、色盲になっている(低照度下で活躍する旱状体視細胞は色盲) ので、アポは必要なしとのことなのでしょう。

マリオット氏盲点

双眼視の効果は議論する余地がないほどのものと思っていましたので、あまり具体的にコメントした 記憶がありません。 しかし、双眼視の効果が大分認識されるようになった昨今でも、やはり認識に温度差が あるようなので、今日は敢えてコメントしてみることにしました。

今回はその中でも、意外に知られていない単眼の視野についてご説明します。  上の写真は右眼で、見掛け視界60度のアイピースで見た地上風景です。視野中心から右に約 15度の所に浮かぶ黒い楕円は何でしょう? 黒い風船ではありません。あなたが右眼単眼でアイピースを覗いている時、 ほぼこの黒楕円の範囲は何も見えていないのです。

この盲点のことを”マリオット氏盲点”と言うのです。横幅で5度、縦幅で6度以上あるでしょう。これは、眼底の視神経乳頭 に当たる部分で、網膜の視細胞の一つを、眼底のお椀の表面に配置した光ファイバー1本の端面に例えると、全てのファイバーを束ねて お椀(眼球)の外に取り出す穴だと考えることが出来ます。

上の画像は、60度の視野を想定していますので、実際の角度をシミュレートするには ずっと大きな画像が必要で、例えば55cmくらい離れたモニター上では、盲点の領域(画像の黒楕円)は2インチのバレル径くらいの面積に相当することになります。   この盲点は、かなりの面積で、20mも離れれば、自動車が1台すっぽり入りそうな大きさです。

描画ソフトを使うと、自分の盲点を正確に描画することが出来ます。モニターの中央より少し左寄りに固視点になるような目印を 描き、左目を遮蔽し、右眼でその固視点から眼を離さないようにしながら、カーソルを少し揺らしながら固視点から右の方に 移動させて行きます。カーソルが消えた時点で直線を引き始め、カーソルが出始めたら引き終えます。その作業を異なる高さで 繰り返すと、自分の眼の盲点の領域が作図出来るわけです。(50cmも離れますと、盲点はモニターの右端に近い方に来るでしょう。)  説明のために黒い楕円で示しましたが、盲点というのはそこに視細胞そのものが無い所ですから、黒い点とも、白い点とも 認識されるわけではありません。上の画像では、アンテナの背景の空に溶け込んでいて、盲点は本人にはほとんど認識できません。  また、認識できないが故に”盲点”であるとも言えるのです。
潜在的に見る能力がある部分を遮蔽されて初めて黒点として認識 できる訳です。この事は、単なる理科的な興味だけではなく、私たちの認識の仕方の原点を鋭くえぐる、深い示唆に富んだ現象だと 思われませんか。 老人が、「わしゃ大分ボケてしまったわい。」と嘆いている間は惚けていず、「わしゃボケとらんわい!」と怒りだしたら ボケているのと似ていますね。^^;

左眼だと、ちょうど対称的な位置に盲点が来ます。両眼視で初めて盲点が無くなる訳ですね。うまく出来ているものです。

双眼視によるコンポジット効果で眼の解像度や視野の明るさが飛躍的に増すことを議論する以前の決定的な問題として、 この盲点があるのです。

T先生

小学校の3年生まで、担任は女の先生が1年ごとに交代した。
当時の私は、生意気だったのか、女の先生のお遊技的スタンスが嫌でならず、先生の指導と うまく噛み合わなかった。もっとも、私は授業を妨害するような生徒ではなかったが、正直に言って、幸せな低学年を送った記憶がない。

?年生の時に、リズムに合わせた足踏みがうまく出来ず、皆の前で悪い見本でやらされ、先生に、
「まるで芝居の馬の足だ。」
と言われ、級友の喝采?を浴びた。

先日、その女先生が数年ぶりに見えたら、数年前に肺癌で肺の大半を切除しておられ た。早期発見で転移が無かったとのことで、外観は非常にお元気そうだった。
帰られる時に、 私のテレビ番組(夢をつむぐ人々)のビデオを渡した。

それから10日ほど経った今日、先生が見終えたビデオテープにお祝いの祝儀袋を添えて返しに来てくださった。   両親にも、同じ小学校に世話になった、一昨年に他界した姉へのお供えにお悔やみの手紙を添付してくださった。
ビデオの件は、先生は大変喜び、心から賞賛してくれた。 以前から”たっちゃん”と呼んでくださり、お客さんになっていただいていたので、小学校時代のわだかまりは すでに消えていたが、(お祝いをいただいて言うのではないが^^;)、この度改めて先生のありがたさを知った。

先生についての想い出に、二つの強烈なシーンが浮かぶ。

一つは、先生の豊満な”オッパイ”だ。山に遠足に行った日、気の合った友達同士で昼食を取りながら、 先生の姿が見えないのに気付いた。 2,3人の級友と一緒に先生を捜していたら、山道から外れた人目につかない所で、 先生がしゃがんでオッパイを出していた。吸引器のような物で白いお乳を吸い出しておられ、皆、目が点になった。   先生は慌てることもなく、
「オッパイが張るけえ、こうして吸いださんといけんだが。恥ずかしいけえ、誰にも言ったらいけんで。」
と言いながら、その作業?を続け、私たちは最後までそれを見届けた。   先生は、その年、幼い子供さんを交通事故で亡くされていた。 その時は聞いたはずだと思うのだが、印象に残っていなかった。

もう一つ、鮮烈に浮かぶシーンは、ガキ大将の生徒が先生に突き飛ばされているところだ。背丈は小柄な先生に匹敵する悪ガキが、 「かかって来い!」と言う先生に泣き震いで突進するが、何度突進しても先生にはかなわない。

まさに体当たりの先生だった。 多くの親が自分の子供を育てるだけで顎を出している昨今だが、多くの人の子を育てて来た先生の偉大さを今さらながら 知らされた。

斜位矯正

新年、明けましておめでとうございます。 今年の年賀は年内に書くことが出来ず、いただいた分から返信させていただいています。  失礼の段、お許しください。(店頭のお客様用の2000枚は年内に発送したのですが・・・)

さて、今日は昨年末に斜位矯正をして非常に喜ばれた例をご紹介します。

斜位矯正

一般には、メガネは視力を補正する道具だと思われていますが、それだけではありません。
年末に相談に見えた中年男性は、数十年来複視(二重像)に悩まされ、これまでにあらゆる医療機関やメガネ店にかかったが 問題は解決せず、諦めており、運転免許はもとより、職業さえ制限を余儀なくされていました。

私が検眼してみますと、かなり深刻な斜位、というより斜視と言った方が良いほどの眼位の異常がありました。 しかも、ずれは上下方向と水平方向にまたがり、それらをベクトル的に合成して矯正に要したプリズムは片方で5pd(プリズムディオプトリー(1mにつき、 5cmのずれ))に達していました。
プリズム矯正の実用的限界に近い度数でしたが、この方の二重像は直ちに解消し、感激していただいた次第です。

この方の例は極端ですが、明確な自覚につながらない場合でも、斜位を持つ方は多く、未熟な検査の網をくぐっているはずです。 遠視も誤解されているものの代表で、これも「メガネは視力を補正するもの」という短絡的な認識からは到底理解が及ばないようです。 とくに若年者ほど遠視は自覚されにくく、本人が納得しない場合は、症状が顕在化するまで放っておくしかありません。  ただ、正視眼の人が3時間集中できる近業が2時間、あるいは1時間でダウンすることも起こりうる訳で、ある意味では人の一生をも左右しかねない 問題なのですが。
視機能の発達途上の幼児の強度の遠視を放置すると、調節と輻輳のアンバランスから斜視になり、複視を回避するために 脳が効き目でない方の眼の情報を遮断するので、その眼は廃用性の弱視になり、成長後にレンズでの矯正を試みても視力が補正できなくなるのです。
年末に見えた方は、矯正視力が左右共0.3くらいあり、完全に弱視化していなかったので、成長期後に発症したものと思われますが、  逆に片方の眼(効き目でない方)が弱視化していなかっただけに、そのつらさも相当なものだったと思われます。