足利先生からのメール

 母校の遷喬小学校の門前には蘭学者の稲村三伯の記念碑が立っている。声が届く程の距離に三伯の生誕地が あるからだ。目立つことの少ない山陰にあって、郷土が誇れるものの一つである。 ただ、江戸時代に歴史的偉業を成し遂げた稲村三伯先生も、お会いしたこともなく、私にとっては遠い存在に過ぎない。

  自分が実際にかかわった方の中で、尊敬する人として真っ先に目に浮かぶのは、足利先生だ。  足利先生には高校時代に数学でお世話になったが、私は決して良い生徒ではなく、先生のテストで一度だけ記念すべき 「0点」を採ったことが今でも忘れられない。当時、器械体操に没頭していた自分には、テストに向かうのがどうでも良い 事のように見え、敢えて白紙で提出したのだった。 決してどなり声を揚げるような先生ではなく、テストの結果に心配して 部活をしている私を訪ねてくださり、お陰でその後はまじめに勉強した。

 先生は、象のような立派な体格ながらいつも三つ揃いの正装に身をかため、物静かで生真面目を絵に描いたようで、また当時は珍しかった縁なし メガネと懐中時計から、生徒は先生を陰で”天皇”と呼んでいた。 いつも廊下をゆったりと威厳を持って歩き、それでいて 尊大な感じはないのだった。 しかし、悪がき共が先生に付けたあだ名の真意は、そんな先生を揶揄したものだった。

 先生は店のお客さんでもあった。20年ほど前に最愛の奥さんを亡くされ、その後来店される度に、「貞淑な妻でした。 家内が逝ってから、今日で*千*百*十*日目になります。」と言っておられた。

 私がパソコンを使うようになってから1年ほど経った頃に先生にパソコンを勧めた。 当時90歳だった先生はパソコンを購入され、最初の手ほどきを、今度は私が先生にさせていただくことになった。

 現在でも鳥取市のご自宅で数学を教えておられる先生も、ダブルクリックがうまく出来ない等、最初はやや難航され、 もう少しのところでやや体調を崩され、パソコン講座を一時中断した。 さずがの先生も諦めてしまわれたのかな、と思っていた ところ、1年近く経った頃に電話をいただき、講座を再開、完了することが出来たのだった。

 足利先生は今95歳、現役時代から気高郡(奇しくも町は異なるが、蜂谷氏と同じ郡)の実家と鳥取市の家との往復を 一日も欠かさず続けておられる。子供さんは全て立派に自立しておられ、自分自身も今だに自立した生活をしておられるのだ。

  そんな先生から久しぶりにいただいたメールをご紹介する。

足利先生からのメール:

 先日はお便り有難うございました。お父様始め皆様お元気のご様子、大慶至極に存じます。 私こと20年一日の如く愚直なまでに同じ動線を描いて暮らしています。
鳥取ー**間が少し長い廊下の様な感覚になりました。
 あなたの旺盛な研究心には唯ただ頭の下がる思いです。 ご健康にて益々ご研鑚の程祈り上げます。

 思えば我が生涯において誠に有難い幾多のご厚誼を戴きました。深く感謝致し居ります 向寒の砌ご自愛の程祈り上げます。

  もったいないメールです。

余談だが、足利先生は足利尊氏のれっきとした末裔であられることを、最近知った。