モンゴルから来たO君

朝青龍が7場所連続優勝を始め、数々の記録を塗り替える快挙を遂げた。
また、琴欧州が大関昇進に王手をかけた。

琴欧州は、関取になった時、交通事故で働けなく なったお父さんに新車をプレゼントした。 引退が決まった佐渡ケ嶽親方(元横綱琴桜、鳥取県出身)は、 琴欧州のことを「わしらの時代の力士が大切にしていた心を持っている。」と激賞している。

さて、最近、相撲、モンゴル、鳥取、というキーワードにヒットした、ちょっとした体験をしたのでご紹介したい。

2か月ほど前、すこぶる巨漢の高校生が店に入って来た。やや日本語が不自由そうだったので、咄嗟の直感で韓国からの留学生 かと思い、「ハングゲソオショスムニカ?」(韓国から来られたの?)と片言の韓国語で対応したら、きょとんとして、「モンゴルです。」 とのことだった。

そのモンゴル青年は鳥取市の相撲の名門校である鳥取城北高校の相撲部3年生だった。同校相撲部は今年の岡山国体で優勝している。 (琴光喜関も、愛知県出身ながら同校に相撲留学していたので、鳥取のローカルニュースでは毎日取り組みが放映される。)

モンゴルから来た0君は、この年末年始の帰郷に、お父さんに双眼鏡を買って帰りたいということだった。  彼がお気に入りのNIKONの双眼鏡はちょっと予算オーバー、でもお父さんには出来るだけ良い物を買って帰りたい。 事情を知るや、私もこれは商売抜きで一肌脱ごうと思って破格のdiscountを提示したのだけども、それでも何度か来店し て迷っていた0君。

その後、偶然、友人(1年先輩)である同校の先生が久しぶりに見えた(教頭先生になっていた)ので、O君のことを話したら、 「O君はとっても良い子だ。僕も援助したい。」と私に1万円を託した。 ということで、本人負担は八千円ということになり、先日 O君は喜んでその双眼鏡を買って帰った。

その時、0君はモンゴルや家族のことを少し話してくれた。 軍人のお父さんの趣味はハンティング、広大な大草原で獲物を見つけるには 高性能な双眼鏡が威力を発揮する。 広大な国土に対し、モンゴルの人口はわずか280万人、そのうち160万人はO君と同じウランバートル に住んでいるとのこと。
「南の国境線付近の土(つち)を中国人が買い占めていて、政府は無策に傍観している。」と憤慨していた O君。
「土(つち)を買ってどうするんだ。 それって”LAND”のことじゃない?」 と聞いたら、そうだった。^^;

話してみると、3年間でつち^^;かった彼の日本語は、なかなかのものだった。 日本語と英語、そしてもちろんモンゴル語と 片言のロシア語を話すO君は日本の大学に進学するそうで、将来の夢は大統領になることだそうだ。 彼なら本当になるかも知れないと 思った。

Kさんの 吉祥天

(精緻な彫りの実感までは伝わりませんが、裸眼立体視のペアにしてみました。上が交差法、下が平行法用)

Kさんのことは去年、”親思う心にまさる親心”で紹介させていただいたが、 昨日、白内障手術(一月前)後のメガネの更新をさせていただいた。

依頼(注文)に見えたのが4日ほど前、「これが最後だと思う。」とまじめに言われた80歳のKさんの言葉を一 笑に付すことはできなかった。 通常3年から5年というメガネの買い換えサイクルから見ると、それはあり得ないこと ではないからだ。 それはこちら側も同じこと。 まさに一期一会の言葉の通りだ。

Kさんは父の代からのお客さんだ。当時から大型店は派手な宣伝をしていた中で、今よりも零細だった当店をひいきにし てくださったお客には、一種の判官贔屓の心意気があったのだろうと、自分もこの年齢になって、遅まきながらも 感謝の念が身に染みる。

Kさんが4日前にメガネを注文して帰られるときに、私はそれまで見せるのを躊躇していた、上記エッセイ(親思う心にまさる親心)を 思い切ってプリントアウトしてKさんに手渡した。

そして昨日、メガネを受け取りに見えたKさんは提げ袋に何やら大きな物を入れて来られた。
それが、この吉祥天の木像だった。
「眼を悪くしていた頃に彫ったものだから、出来は良くないのです・・・。」という、いつもの謙虚な言葉には当たらない、 見事な木像で、デジタル平面画像では1/10も再現できないのが歯痒く、せめて工夫して立体写真にしてみた。 これで1/8くらいは伝わるかな。
Kさんによると、「NHKドラマの”義経”でもよく登場する毘沙門天の奥さんが吉祥天です・・・」 ということだ。

そして、この”吉祥天”を頂戴してしまった。 「はい、ありがとう。」と手を出すのも躊躇を覚えたが、 ”命”をいただくのだなあ、と思いながら受け取った。

自分の分身を託しながら、自慢話をされることもなく、わずか15分ほど話しただけで、あっけないほどいさぎよく 踵を返して帰られたKさんの背中を、今度は私が万感の思いで見送った。 なぜか引き止めるきっかけを失っていた。

なんだかあのエッセイで催促したようで悪かったなあ、と思ったが、後でKさんの奥さんも読んで涙を流してくださ ったことを知った。

懸賞ゲット(2)

去年に引き続き、今年も地元の進学高校の文化祭のプログラムに 載っていた懸賞問題に挑戦した。去年と違うところは、去年は中学生だった娘が同校の トップクラスに入っていることだ。

高一の娘は少し前から文化祭の準備と本番でかなり疲弊していたこともあってか、 あまり問題に集中せず、私と違う答えを出した。もっと考えるように言ったが、自分が正しいと言い張るので、 「勝手にしろ!」と言って父が一人で応募した。

同予備校のサイトから応募のフォームに入ったら、最初に”生徒名”という欄があって、 ちょっと顔が赤らんだが、下の学年の欄に”その他”があったので、遠慮なく入らせていただいた。^^;   先日、同予備校より正解の通知が来て、まずは父親の権威失墜を免れた次第だ。

この問題は落とし穴に入りやすい。これは簡単、とぬか喜びして、1/24とか、1/12とかいった答えを すぐに出してしまった生徒が多いのではないだろうか。x≦-1/4、y≦-1/6 より、xy≧1/24とするのは早計である。   珍問奇問ではなく、関数の本当の理解を促す問題なので、高校生はぜひ解いてみるべき問題だと思う。    問題を作った方に敬意を表したい。

My American Friend and the War(WW2) / 友達と戦争

8月9日は、広島の3日後に長崎に原爆が落とされた日。  アメリカでは、「原爆によって戦争の終結を早め、戦争が長引けば予想された、より多くの人命の損失を回避した。」 と教えている らしい。

旧約聖書には、神によって焼き払われた二つの邪悪な都市、ソドムとゴモラの話がある。 まずは非白人であり、 異教徒とみなしていた国民への仕打ちには、もともとその行為を正当化させるだけの文化的土壌のようなものが、当時の 連合国の間、特にアメリカ人の中にはあったのではないだろうか。

今日のテレビのニュースで、長崎の浦上天守堂での追悼ミサの状況が放映されていた。 被爆したマリア像の首を、 教会関係者がうやうやしく祭壇に掲げていた。 恐らく、日本にもキリスト教が根付いていること、 ましてこれだけ大きな礼拝堂があることを、当時はおろか、今でも知っている旧連合国民はほとんどいないだろう。  無惨に被爆したマリア像の首の映像を、アメリカの人々にぜひ見てもらいたいものだ。

二十年前にアメリカの友人を訪ねた時、友人は自分の地元の親友も招いていて、3人でこんな会話になった。

Mr.K: 「(太平洋戦争で)何でお前らはPearl Harborだけ攻撃して帰ってしまったのかいな。 本土に上陸してアメリカ人 を皆*しにすりゃあ良かったのに。」

私: 「そんな余裕も準備もあった訳がないでしょう。」
牧師にあるまじき投げかけに少し驚いたが、むしろ、そんな型破りのMr.Kを私は気に入っていた。  試されているような気もしたが、しどろもどろにまるで見て来たかのように答弁する自分自身に可笑しささえ感じていた。

Mr.K: 「それに、南の島ばかり取って何になるだい。」

私: 「資源が無いので、まずは足場を固めないと・・・」

それからMr.Kは地元の親友と、「日本の兵隊が世界で一番強い・・」という意味のことを話して、互いに納得していた。

Mr.Kは親日家という言葉では表せないほど、日本や日本人に対する思い入れは尋常ではなかった。 それは時にはうっと うしくなるほどであり、結果的に疎遠になってしまった原因ともなり、やがて音信不通になり、最近、彼の死がほぼ確定的 になるに至って、今や贖罪の念が私自身に重くのしかかっている。

Mr.Kは現地のレストランで私を接待しても、決してテーブルにチップを置かなかった。 それについて私が尋ねると、 「こんな生産性のないやつらにやる金はない。日本人ならいくらでもやる。」と聞こえよがしに言っていた。

Mr.Kは職が安定しなかった父親のために高校を卒業するまでに11回も転校させられた。 「自分の名は父が闇品売買で 刑務所に入っていた時の父の務所仲間の名だ。」と、自分の生い立ちをさらりと打ち明けた。

Mr.Kは高校を卒業すると、空軍に入り、配属されたのが日本だった。 大学に進学する学費を稼ぐためであり、実際、 除隊後に高校教師になり、牧師にもなった。 日本にいた数年の間にMr.Kは初めて、親友と言える友に巡り会う。 その日本人 の親友は、なぜか英語が流暢で、友に日本語を教えなかった。その日本人青年も、食卓で日本語を話すと父に箸箱で頭を叩かれ て育ったという希有な生い立ちを持っていた。 暗い陰を持つ、数年年上の日本人青年をMr.Kは師と仰ぎ、最愛の友とし、 心酔して行った。 しかし、日本人の親友は、妻がポリオを患う等の不運の末、自殺してしまう。若い頃のMr.Kと日本人青年が 一緒に写った写真を私は彼から貰って、今でも持っている。

Mr.Kにまつわる話には、それだけで小説が何冊も書けそうなほどのドラマがあるが、脱線がエスカレートしそうなので、 じっと我慢して本題に戻る。 そんなMr.Kが送ってくれていた現地のテレビのドキュメント番組のビデオを思い出したのだ。

それは広島に投下された原爆に関する特集番組であった。 何と、それは延々と1時間以上も続いていた。 ニューメキシ コ州のロスアラモス、砂漠の真ん中に原爆製造のための都市が作られた。 科学者と技術者を家族ごとそこに隔離し、学校や 病院等の施設まで作った。 わずか3年足らずで原爆の実験に成功し、1か月も待たずに広島と長崎に投下されたのだ。

番組の中でインタビューに答えていた(オッペンハイマーは番組制作時にはすでに他界していたはずなので、古い記録 だろう)、当時の原爆製造プロジェクトのリーダーだった、晩年のオッペンハイマーの深い眉間の皺が彼自身の苦悩を物語っ ていた。 また、日本から送られたであろう被爆者のインタビューも、原音入りで長時間に渡って流されていて、被爆者が直 接描いた生々しい絵も同時に紹介されながらの英語への同時通訳が興味深かった。 聞き取れない部分が多かったが、広島に 投下された原爆についての特集が、これだけ詳しくアメリカで放映されたことに一番驚いた。日本でもこれだけ詳しいドキュメ ントが作られたことが何度あったろう。

原爆投下を正当化するのもアメリカ人なら、極めて中立に原爆を描写しようとするアメリカ人もいる。 また、Mr.Kの ようなアメリカ人も。 多様性が日本よりは許容されている国と言えるのだろうか。

ただ、偏見も愛着も極めて危うい両刃の剣。 人が二人いれば社会が生まれる。 家族、地区、都市、県、国、スケール は異なるが、原点は人。

私がMr.Kを訪問している時に、彼はこんな話を自慢げにした。   「黒人の貧しい生徒の父親が死んだので、私がタダで葬式を出してやった。 その時、同僚の黒人の女先生がMr.Kに言った。 『あなた、そんな地区に行ったら殺されるわよ!』」
ところが、滞在中に彼と一緒にテネシー州に小旅行に行った時、ホテルの部屋で、廊下を話しながら通る3人ほどの客の 声を聞きながら、「おい、聞いてみろ。3人のうち二人は黒人だ。アクセントの違いで分かるんだ。」と言っていた彼の様子か ら、Mr.Kの偏見フリーの限界を見た。

私がMr.Kを訪問した次の年の夏に、今度は彼が私を訪問した。 後になって分かったことだが、Mr.Kの妻は日本に固執する 夫に、いみじくもこう吐き捨てたそうだ。
「そんなにまでしてジャップと地べたに座りたいの?!」

私がMr.K宅に滞在中、彼の妻は一通り親切にしてくれたものの、顔は微笑んでも目が笑っていなかったので、何となく歓迎 されていないことは分かっていた。洗濯物は私のパンツまで家族と同じ洗濯機で洗っていたが、火力発電所を見学して帰った時、 私の白に近い薄茶色のズボンの裾が石炭の粉で汚れていて、彼女が漂白したら、まだらに脱色してしまったことがあった。 彼女が手放しで笑ったのはその時だけだった。^^;

私の所を訪問して帰国した、牧師のMr.Kは長年連れ添った奥さんと離婚した。

盾と矛とをひさぐ者あり

「某鏡筒でEMS-Lは合焦しますか?」   これは当方に来るFAQ (Frequently Asked Questions) の筆頭である。

私がEMSの初期型を発売してからすでに16年を経過し、上記の状況に進歩がみられない原因を私なりに 解析してみた。

それは単純明快な事だった。つまり、市販鏡筒が変わっていないということだ。何が変わっていないのか。  バックフォーカスやドローチューブ内径が変わっていないのだ。

16年間という長い年月とインターネットの普及のお陰で、EMSの認知度がようやく上がって来たことに喜びと感謝 を感じるものの、変わらない現状に落胆させられるのも事実だ。

最近では、一部光学メーカーや販売店までがEMSを取り扱ってくださっており、当方には順風が吹き始めているかに 見えるが、上記現状に変化の兆しは全く見えない。それはどうしてだろうか。   それは、EMSが特殊な製品として認知されているからではないだろうか。つまり、従来の天頂プリズム等の一連の 周辺パーツの中の一つの特殊な製品としての扱いだということだ。

語源とは少し意味が異なるが、無敵の盾と無敵の矛とを同時に売る 矛盾がそこにはあるのだ。 私に言わせれば、それは固定観念の呪縛がなせるものであって、何らの根拠もないものな のだが。   私の価値観では、裏像の天頂プリズムはその本来意図された使用目的については不燃ゴミでしかない。 ジャンク ボックスの中にキャップもしないで突っ込んでいる。その出番は、実験やEMSとの比較説明の時だけだからだ。

ただ、実際には、合焦の問題は些細なことなのだ。大抵は接眼部の不適切に光路を消費するアダプターを交換する か、鏡筒を少し短縮すれば解決するからだ。 しかし、鏡筒を加工することに抵抗を示す消費者の方が意外に多いことに 驚かされる。 これもなぜだろうかと考える。 EMSの合焦のために市販鏡筒を少し改造することは、人間工学的に不完全 な鏡筒を加工して、使い道具として完全な物に改良する作業であると私は確信するのだが、それに抵抗を感じる方は、 ”新しい品物を壊す”、という感覚を持っておられるのではないだろうか。

光学メーカーは、十年一日のごとく裏像の天頂プリズムの使用を前提にして鏡筒を設計していて、それにブランド の権威を帯びさせているのだ。大半の消費者はその価値観を自然のうちにすり込まれているが、それに気付いていない。  つまり、未だに倒立像や裏像が権威を帯びていて、光学メーカーも消費者も、その呪縛から逃れていない、 ということだろう。

重い物は軽い物よりも速く落ちる、というアリストテレスの提唱をニュートンが否定するまでに2000年の年月を 要したように、一度確立した権威を否定するのは極めて難しい。

しかし、時代は違う。 より多くの方に早く目を見開い ていただきたいものだ。

 

楚人有鬻楯與矛者。
譽之曰、吾楯之堅、莫能陷也。
又譽其矛曰、吾矛之利、於物無不陷也。
或曰、以子之矛、陷子之楯何如。
其人弗能應也。

(他筆)わたしが初めて世の中と出会ったとき

今日は女友達のRKさんが書いた文章をご紹介します。  1年ほど前にメールに添付していただいたこの文章に、私はいたく感動し、ご自身でサイトを立ち上げて公開されることをお 勧めしたのですが、「私は自分自身のために文章を書いています。」とのことでした。
しかし、どうしても皆さんにも読んでいただきたいと思い、この度、ご本人の許可を いただいて匿名で掲載させていただくことにしました。
後でお聞きしたのですが、この文章は、末期癌のお友達に送られた ものだそうです。
友達が末期であることを知って狼狽したRKさんを、そのお友達は静かに慰められたのだそうで、この 文章はそれに対するRKさんの万感の思いを込めた返信であり、その意味でこれはそのお友達の文章でもある と言っておられます。

 

わたしが初めて世の中と出会ったとき; by Ms.RK(2002/02/13)

小学校三年から高校を卒業するまで、私は岡山市下出石(しもいずし)町で暮らしました。子ども時代を過ご した町ですから、わたしには暮らした、というより、育った、というほうが実感に近いかもしれません。 旭川右岸に長細く上出石・中出石・下出石と並ぶ町で、旭川の中洲を利用した後楽園が川をはさんですぐ目の前に 見える川べりの町です。町内は竹屋さん、氷・薪屋さん、八百屋さん、お菓子屋さん、時計屋さん、薬屋さん、肉屋 さん、種物屋さん、お米屋さん、こんにゃく屋さん、お化粧品店、電気屋さん、瀬戸物屋さん、雑貨店、履物屋さん、 ふとん店、文房具屋さん、と通りに面して小さな商店が並び、裏道にはお勤めをしている家が並んでいました。 旭川の土手や河原は子どもたちの格好の遊び場所で、土手の石垣をよじ登ったり、どんこや糸なまずなどの小さな 魚を川ですくったり、彼岸花を摘んだり、水切りと呼ばれた石投げをしたり、本当に毎日時を忘れて遊びまわ りました。水切りというのは、平たい石を川面を掠めるように投げ、水面を3段とびのように次々と跳ねて飛ばす 遊びです。小学生低学年の頃は、上級生の男の子が遠くまで10回以上もジャンプさせて飛ばすのをただただ尊敬と 憧れの眼差しで見ていました。また、たとえどんこのようなちいさな魚でも、息をひそめてそうっと近づき、 さっと手づかみでつかまえるのは、子どもにとっては大抵の技術ではなく、私はひたすら取り逃がしては、次々と バケツに魚をすくいあげる男の子を尊敬の眼差しで見ながら、その子のバケツ持ちをしていました。

私たちのテリトリーは、上は町と後楽園とを結ぶ橋である鶴見橋のたもとから、下は後楽園の裏門と城跡と を結ぶ月見橋あたりまででした。現在、烏城は鉄筋コンクリートで再建されていますが、当時は戦災で焼け残った 月見櫓だけが残っていました。そのかなり広いテリトリーの中間あたりに岡山神社がありました。今は土手下にき れいに舗装された道が走っていますが、当時は土手まで全部神社の敷地になっていて土手に立つ大きな木 (今度岡山に帰ることがあったら何の木なのか、木の種類を調べておこうと思います。)は注連縄がかかった 御神木でした。神社が道路用地を市に提供したため、神社の敷地から離れて、ぽつんと土手の上に取り残されて立 つその木には、この前帰省の折に見たときには注連縄はなく、御神木の役目をはずされてしまったのかどうか、 これも今度尋ねてみたいと思っています。

さて、この岡山神社の敷地全体も私たちのテリトリーの一つでした。レンガを組み合わせて作った仕掛けで雀 を生け捕りにしたり、花崗岩で作られた実物大の馬にまたがって遊んでは神主さんに見つかって怒られたり、 夕方になるとこうもりの群れが飛び回り雰囲気十分のそれはそれはエキサイティングな遊び場だったのです。 ここでも、私は雀を捕まえることはできず、生け捕りに成功するのは決まって神社のすぐ近くにある家のかなり年上 の男の子でした。一度だけ私のしかけたわなに雀が掛かったことがありましたが、獲物は生け捕りではなく、 レンガに首をはさまれて死んでいて、そのことがあってからは、私は雀の生け捕りから足を洗いました。

そしてまた、岡山神社は我が家の躾の場所でもありました。ちょっとしたウソ言ったり、母のお財布から小銭を 掠めたことが見つかったり(これは主に弟がやっていました)、けんか両成敗で怒られては、「神様にちゃんとおこ とわり(お詫び)」をしてきなさい、と言って神社へ行くことを命じられました。親に叱られて家を閉め出されると、 大体この辺をぶらぶらして、馬にまたがってみたり(叱られたときにまたがってみても、なぜがちっとも楽しくあり ませんでした)したものです。もちろん、ちゃんと鈴とお賽銭箱のあるご神前で「ごめんなさい、もう悪いことは しません」とおことわりもしました。何十回となく頭を下げておことわりをした割には、私はあまりよい子には育た なかったようで、もしかしたら、私には高級官僚の素養が備わっていたのかもしれません。この事実に早く気がつい ていれば、もう少し一生懸命勉強してその道をめざしたのですが、残念ながら今となってはもう遅すぎるようです。

春、夏、秋・・・どういう暦にしたがって開かれていたのかは分かりませんが、神社でおまつりがあり、 夜店がたくさん並びました。金魚すくい、ヨーヨー吊り、りんごあめ、お面、風船、射的、今はもうあまり見かけなく なりましたが、柔らかいあめを吹いてガラス細工のように動物などを形作り、きれいに色をつけて売る人があ りました。買ったことはありませんが、白い玉から魔法のように次々と作品を作り出すその慣れた手際のあざや かさにただただ見とれて、いくら眺めていても飽きませんでした。アセチレンガスのにおいでなんとなく気分が 悪くなるのが潮時で、私はしぶしぶその場を離れたものです。いろいろな色のプラスチック(薄い下敷きのような板) を使ったきれいなケースにニッキや薄荷が入ったお菓子なども、その色の鮮やかさがいやが上にもお祭りの楽しさ を盛り上げていたように思います。それから、これは今も同じですが、イカやとうもろこしを焼くこげたお醤油のに おいが漂ってお祭りの雰囲気はいやがうえにも盛り上がっていました。

家の向かいの文房具屋さんのおばさんは、書道の腕前をいかして家の一室を習字教室にして家計の足しにし ていました。その書道教室にしばし入門していた私は、お祭りのころは、行燈にしたてる作品を練習しました。 社務所付近に飾られる行燈は、町内の子どもたちのミニ展覧会で、○の●ちゃん(山田のミドリちゃんという具合) はいつも上手いね、とか、△君の絵は今度はとても面白いね(発音どおりに表記すれば、「△君なー(△くんのは) 、こんだーぼっこうおもしれーのー」)など、近所の大人たちは町内の子どもたちの作品について品評会をしてい ました。当時はこんな言葉はありませんでしたが、こういう大人たちの評価、子供たちへの関心は、立派な 「地域の教育力」といえるのではないでしょうか。

さて、行燈にするお習字の作品をちゃんと練習した御褒美の意味もこめて、私たち兄弟は何がしかのお小 遣いをもらってお祭りに出かけました。そこで、私が遊ぶのは、きまって金魚すくい。それからヨーヨー吊り でした。口を真っ赤にしてりんご飴を食べる気にはなれず、食べ物関係はもっぱら眺めるだけ。射的なども見物人 で楽しみました。それからもうひとつというか、もう一人、いつも気にして探してみるのはひとりのお乞食さんで した。

その人は小児麻痺にかかったということで、手足と言葉が不自由でした。 「私は○才のときに小児麻痺にかかりました。」に始まって、歩くことも話すことも、 もちろん働くこともできないので、みなさんからのお慈悲にすがって生きるほかはありません、 といったようなことが書かれた札を莚の前におき、小銭を受ける真鍮の鉢を置き、そして自分はひたすらじっと 座っていました。時折お金が投げ入れられると、「ウー ウー」と言いながら頭を下げるのは、きっと「ありがとう ございました」と言っているのだろうと容易に想像がつきました。そして、私はお小遣いの残りをときどきこの鉢に 寄付して?いました。

お祭りのたびにその気の毒なお乞食さんはいました。あるときはお賽銭箱のすぐ近くに、あるときは鳥居 のすぐ横に。私はその気の毒な人は岡山神社からそう遠くないところに住んでいるのだろうな、と思いましたが、 いったいどのような暮らしを毎日しているのかについてまでは、想像をめぐらすことができるほど大人ではあり ませんでした。

あるとき、隣の中出石町に住む従姉妹(父は、この従姉妹たちの父親である伯父と共同で農機具の販売を始め、 私が小学校三年になったとき、下出石で独立した会社を始めたのです)から誘われたのだと思いますが、よその町の お祭りに寄りました。(寄るというのは寄せてもらう、つまり参加するという意味です)そして、私のテリトリーを 遠く外れた、学区の反対側のはずれの広瀬町の神社まで、「だんじり」(=山車)を引いていきました。あまり通った ことのない道、しかも夜の道をどんどん遠くへ歩いていくことは、それだけでとてもエキサイティングでした。 見たことのない街角の光景が次々と目の前に広がる様は、自分の世界が広がっていくようで、それは本当に胸がどき どきするような体験でした。

やっとだんじりがお祭りの開かれている神社に到着したときは、再び引き返して家に戻ったのが9時過ぎだった でしょうから、そんなに長時間たったわけではないはずだのに、私には地の果てまでたどり着いたような心地がし ました。

そこには岡山神社と同じような「おまつり」の光景がありました。岡山神社とは、参道のようす、境内の様子 なとが少しずつ違いますから、ちょうど、他所の家に遊びにいったとき、その家の階段、廊下、勝手口などのつくり がいちいちものめずらしいのと同じように、私は並んでいる屋台も含めて境内をものめずらしそうにじっくりと観察 したのです。

すると、どういうことでしょう。こんなに遠く離れた広瀬町のお祭りに、あのお乞食さんがいるのです。 私は跳び上がるほど驚きました。どうして岡山神社の近くに住むはずの、足の不自由なあの人が、ここにいるんだろう ? 第一、あの人はどうして、今日この神社でお祭りが開かれることを知っているのだろう。

私にとって、自分の世界が倍ほどにも広がったかに思えたエキサイティングなお祭りの経験は、そのお乞食 さんと出合うことによってさらに5倍ほど広がりました。そして、私の頭には、どうしてあの人があそこにいたのか、 という謎が住みつくようになりました。

次の岡山神社のお祭りの日、私は家を出るのをすこし遅らせました。出かけるのが遅ければ、帰りがちょっ と遅くなっても叱られないで大目に見てもらえるのではないか、という子どもなりの計算があったからです。頭に 住みついている不思議マークと一緒に、岡山神社に着いてみると、やはりその日もあのお乞食さんはいました。 茣蓙に座り、お鉢を置き、説明書きを前に広げていつもと同じように物乞いをしていました。

いつものように、ヨーヨー吊りをしたり、あめ作りを眺めたりしているうちに、だんだん人出が減ってくると、 まだ人がいるのに、ポツリポツリと屋台が店じまいを始めました。そうなると人は潮が引くようにいなくなり、 お祭りのにぎやかな様相は一変してみるみる跳ねた舞台のようになってきました。

私は何か用があるようなふりをしてその辺をうろうろしながら、お乞食さんの様子を窺っていました。 すると、ヨーヨーの店を片付け終わったおばさんが、そのお乞食さんのところへやってきて、鉢にたまったお金 を勘定し始めたのです。そして、なにやら手帳のようなものに書き込んで、説明がきや真鍮の鉢を片付け、 お乞食さんの世話を始めました。

そうです、そのお乞食さんの世話をして、彼をつれてきていたのはヨーヨー吊りのおばさんだったのです。 年の関係からみて、親子ではない(当時の私の子どもの目にそう映っただけかもしれないのですが)ないようでした。 お姉さんと弟のように思われました。

あのおばさんは、弟の世話があるから結婚していないんだろうなととても気の毒に思えました。 まだまだ戦後の貧しさの残っている時代です。行政は道を作ったり、学校を建てたりで精一杯で、きっとまだまだ 障害のある人の福祉にまでは今のような予算が出せていなかったのではないかと思います。おばさんは仕事のあいだ、 弟を自分の目の届くところに置くために自分の近くに座らせ、同じことならば、と彼に物乞いをさせていた のでしょう。

とにかく、そのお乞食さんの秘密がわかったとき、私は生きていくことがどういうことなのか少し分かった 気がしました。世の中の秘密を見たような気がしました。そして、ちょっぴりだけ大人になれたような気がしました。 漢字を覚えても、計算ができるようになっても感じることのなかった、「私は昨日までの私とは違う」という思いが 湧いてきました。そう、私はあのとき確かに「世の中」と出合ったのです。

何かつらいことがあると、お金を数えていたおばさんの姿を思い出します。弟を連れて縁日めぐりをして食べ ているおばさん。これは、あとでまた知ったのですが、手帳に書き付けてあったのは、何日にはどこで縁日がある のかという予定でした。わたしが、いつもヨーヨー吊りをするのを知って覚えてくれていたのでしょうか?  いつだったか、私が吊っていると、そっと水からゴムの輪を水槽のふちに引き上げて、紙のこよりを濡らさなくて も吊れるようにしてくれました。驚いておばさんの顔を見上げると、「それはオマケで吊っていいよ」というふうに 黙って目で合図してくれました。

「私は○才のとき小児麻痺にかかり・・・云々」の文言は、おばさんが自分で書いたのでしょうか?それとも善意 を頼んで、あるいはいくらかのお金を払って、他の人に書いてもらったのでしょうか?  それはかなづかいや助詞の使い方などにところどころ間違いのある文章でしたが、整った字で書かれていました。

お祭りのあれやこれやの詳細、紙芝居の絵のように次々と展開する一こま一こまの場面とともにあのおばさんと お乞食さんを思い出すとき、もう二度と手が届かない昔に過ぎ去った子ども時代へのたまらない懐かしさと、 「一生懸命生きなくてはおばさんに申し訳ない」という思いが心のそこから湧いてくるのです。

懸賞ゲット

広告の掲載に応じていた、地元の進学高校の学校祭のプログラムを月初めに受け取った。

”メガネのマツモト”が掲載してあるのを確認した後、各社の広告を辿ってみたところ、一番最後に某学習塾の 広告があり、懸賞問題が掲載されていた。
2変数関数の最大値を問う問題で、「高校の範囲を超えているのでは?」 と思いながら挑戦したみたところ、確かに、高校のレベルで解ける。 年齢制限もなさそうなので、応募してみたところ、 3人の正解者の一人に認定された。

懸賞はわずか千円分の図書券だったが、原始時代レベルから独学で積み上げて来た 私にとっては金額以上の意義があり、今日受け渡し場所で懸賞をいただいて来た。

 

鳥取ルーテル幼稚園創立50周年

今日は表題の幼稚園の創立50周年の式典(午前中)と祝賀会(午後)に出席するため店を閉じた。   この園には、奇しくも私と娘の親子2世代で現園長の三谷先生のお世話になった。記念すべきこの式典に 招かれたのだから、臨時休業もなんのそのだ。

この幼稚園は、昭和29年に鳥取福音ルーテル教会会堂が建築された時、地域の要望を 受けた宣教師コーレ・ビュー師が、会堂を用いて「鳥取ルーテル園」を開設したのに始まる。 開設当時は日本は 戦後の復興期で貧しく、さらに鳥取大火で鳥取市内は壊滅的な被害を被っており、ノルウェーの教会からの 暖かい支援に支えられて幼稚園は今日に至っている。

式典では、Christianで Gospel Singer の森祐理さん のコンサート、同じく祝賀会でもミニコンサートが開かれ、信仰に裏付けられた美しい歌声と 霊的なお話に惹き込まれた。 特に祝賀会で歌われたAmazing Graceでは 頬をつたうものを抑えられなかった。

最後に50周年記念誌に掲載していただいた拙文をご紹介する。もろびとこぞりて

「モーロビト コゾリテー シュワーキマーセリー ♪・・・・ 」

当時は意味も分からず歌っていた。 多分、先生の説明を聞いていたはずなのだが、その歌詞を 「諸人挙りて、主は来ませり。」と理解するまで長い年月を要した。

末っ子の長男だった私にとって、幼稚園は最初の試練だった。 我が強く先生を独占したいのだが喧嘩は 強くなく、絵だけは上手だったようだが、総じて晩稲で、目立たず大人しくしていたと思う。胸をときめかせた 三谷先生の紙芝居の他、葛藤に悶絶していたことも鮮明に覚えている。

当時は現在のような立派な園舎はなく、礼拝堂が園舎を兼ねていた。お昼寝の時間になると、狭い屋根裏部 屋のような所に上がっていたが、すぐに寝付く園友の傍ら、自分はなかなか寝付けなかった。多分そこは教会の 十字架の尖塔部の中だったのではないだろうか。

中庭も含め、結構ワイルドな遊びも許されていたように記憶する。うろ覚えだが礼拝堂内の片隅に椅子が 大量に積み上げられたような所があり、トンネル状の抜け穴で園友たちが入って遊ぶ中、狭い所が怖い私は 入るのが厭だった。園庭には木登りに好都合な大きな木があったが、私は高い所も怖かった。

気が付くと、一人娘がまたお世話になっていた。三谷先生に親子二世代がお世話になった次第だ。時に 娘も同じ葛藤を経験する様子を見ながら、親も学ばせていただいた気がする。

”もろびとこぞりて”の例えではないが、幼稚園とは、種類の分からない種に水を撒くようなものか なと思った。先生はずっと後の発芽を見届けることなく園児を送り出さないといけない。二世代目の入園 で初めて、親となった園児がどんな芽を出し、どんな木に成長したのかを見ていただけるのかも知れない。 いや、親として子供を園に送り出すことで、真の意味での幼稚園のレッスンが完結するのだろう。

親思う心にまさる親心

毎日地方紙の「おくやみ欄」を見るのは母の仕事だ。 小さな個人商店であっても、数千名の顧客リストの中には、数日おきに 該当者(もしくは家族)が見つかってしまうのだ。

「大変、Kさんの息子さんが亡くなってる!」

Kさん(男性78歳)は30年以上前、累進焦点レンズが市場に出始めて間もない頃の当店で第一号の累進レンズ のお客さんであり、以後ずっとひいきにしていただき、1週間前にもレンズの更新をさせていただいたばかりだった。

温厚で紳士的な人格も印象深く、また役所を定年後に始められた仏像等の木刻の出来映えは、アマの域をはるかに超えて心を動かされるものがあり、 その方より機会あるごとに頂いた作品は我が家の家宝になっている。

ただ、全てのお客さんの慶弔にお付き合いするのは、現実的に不可能であり、弔問はその時の微妙な判断に従うことになり、 お世話になっていながら失礼してしまうこともあるので、その点、この場でお断りをしておかないといけない。

ただ、今回のKさんの場合は、逆縁であることを含めて、何としても弔問に伺わないと気が済まないケースだった。

付き合いの長さから言って、両親が行くのが良いと思い、また道路地図によると、そう分かりにくい場所でもなさそうだったので、 敢えて両親に行かせることにした。

1時間弱で帰って来た母の顔が赤く、泣いた跡が伺えた。逆縁なので、とても涙無しには帰れないだろう。当然目的を果たして 帰って来たと思い、「どうだった?」と私が尋ねると、「行かれんかっただが。もうお父さんはダメだわ。」と母は泣きそうな顔をしている。   車を置いてから少し遅れて店に帰って来た父も、「わしゃあ、もうダメだ。」としょげている。

父母は「お前が行ってくれ。」と言ったが、私は敢えて父を助手席に乗せて行くことにした。役に立たなかった音声ナビゲーターの母は留守番だ。
道中、目印をなるべく父に確認させるようにして走った。父はほぼ理解しているようだが、建物や道路が新しくなっていて 混乱しているようだった。15分ほどで先方宅の近所まで来た。地図を見た段階で車の横付けは無理のようだったので、大きな道路の 脇に駐車し、徒歩で迷路っぽい住宅地の中を探したが、ほどなくKさん宅は見つかった。

万が一間違いだったら大変だと心配したが、玄関先に葬儀用の花が飾ってあったので良く分かった。    玄関の戸を開けると、大勢の親族の方が焼香の間で食事をしておられる様子が伺え、対応に出た女性に 「おじいちゃん」を呼んでいただいた。

Kさんは大変喜んでくださり、大勢の親族の方で満杯であるにもかかわらず、そこで焼香をさせていただくと、ぜひ 作品を見て欲しいとのことで、父と私はKさんに従って奥の部屋に案内された。   その部屋の床の間にはいずれ劣らぬ木刻の作品がびっしりと並んでいた。大体50cm程度以下の大きさの像だが、 恵比寿さん、弥勒菩薩、仁王像、観音像等、どれも緻密な彫りで、全体のバランスもすこぶる良かった。特に観音像の 衣のひだが、とても木という堅さを持った素材から成るとは信じ難い柔らかさと優美さを見せていて、舌を巻いた。

Kさんは、作品の解説をするばかりで、いつまで経っても亡くなられた息子さんの話をされなかった。 敢えてお尋ねすると、やはり癌だった。 20分ほどお話をして、私たちは失礼した。

Kさんは外に出て見送ってくださった。細い路地の曲がり角まで来た時、 振り返ったら、まるで戦場に息子を送り出す老母のように、まだ家の前に立って見送っておられ、私たちの帰り道の方向を腕で示してくださっていた。 立派な体躯のKさんだが、遠かったので、 木彫りの仏像くらいに小さく見えた。
小さくなるKさんの姿に反比して、最後まで涙を見せなかったKさんの哀しみのオーラが、この時一挙に吹き出した のを背中に感じた。

子供さんが目指す高校に合格し、喜んでいた矢先に様態が急変、老親と妻子を残して逝か れた息子さんの無念もその波に混ざっていた。

突然、「親思う心にまさる親心 今日のおとずれ何と聞くらむ」 という、吉田松陰が処刑される前に詠んだ句が 聞こえて来て、目が霞んだ。

グリーン・フィールズの幻想曲(1)

  先日、若いご夫婦がEMS-BINOの見学に見えた。  (後でご主人と私との年齢差は十程度だったと知るが、お会いした時の印象はそうだった。)

  かねてより私の双眼望遠鏡に興味を持たれ、佐治アストロパークへの道すがらに立ち寄ってくだ さったのだ。さっそく展示していた口径10cmの双眼望遠鏡を店先に持ち出し、付近の風景を見ていただいた。

  普段愛用しておられる市販の双眼鏡よりも、さらに強調された松本式双眼望遠鏡の立体感と臨場感に、 奥さん共々たいそう感激してくださり、調子に乗った私はその後、屋上のドームの15cm双眼望遠鏡もご案内していた。

 翌日、帰宅されたご夫妻より丁寧なお礼のメールが届いた。 署名の下のホームページのリンクを辿らせていただくと、”Bar April Moon”の看板に促され、 ためらわず入店。 店内は余計な物が置いてなく、むしろやや閑散としていた。しかし、そこ にいると妙に落ち着き、出迎えてくれたエッセイや絵手紙に、忘れかけた物を思い出させられたよう な感じがした。

  さらにそこからリンクしているウェブマガジンに掲載された他のエッセイも読ませていただき、 宮脇さんの感性と文才に非凡なものを確信し、さっそく”宮脇昭好”さんの実名をwebで検索してみた。 すると、いきなり「グリーン・フィールズの幻想曲」という空想小説に至った。 確認したところ、 やはり著者はご本人と分かり、本書を送っていただく。

  小説は、主人公の青年が十年前に自殺した”1時7分の蛙の女の子”のルーツを探す経緯を空想的に 描いている。 コスモス文学賞受賞作だけあって、構成や表現に唸らされ通しだった。

 内容について詳しくコメントさせていただくつもりだったが、二回目を読みながら、自分には軽々しい コメントはまだ出来ないと思った。ただ、早くご紹介したいので、取りあえず簡単にご紹介し、もっとじっく り読んでから、後日改めて感想文の続編を掲載させていただくことにする。

  ただ、”蛙の女の子”は人間の女の子だ。 彼女は主人公と同じ、大学前の安アパートの隣の部屋に 住んでいた。 主人公は、父の自殺のために大学を退学して郷里に帰る前夜の彼女と初めて口を利く。 その夜、彼女は何もしないことを条件に主人公の部屋に泊まる。十年後に彼女の足跡を辿る旅の途中で立 ち寄る”象牙の塔天文台”は、いかにも星を愛する宮脇さんらしい設定で、天文台スタッフも奇妙に魅力的だ。

  後は本を読んでのお楽しみ。ラブ・ロマンスではない。私のように夢とイマジネーションを失いかけた 人にはお勧めの一冊だ。「日本図書館協会選定図書」にも登録されているので、 大きな図書館には蔵書として備えてあるはず。

  この本のストーリーとは関係ないが、そう言えば、私も専門学校卒業の日に、気になっていた級友の 女の子に、口から飛び出そうとする心臓を呑み込みながら初めて声をかけたことがあった。 (小説では蛙の女の子が声をかけた) 学校前の喫茶店で長い手紙を彼女に読ませた。読みながら時々鼻を すすっていた彼女は風邪をひいていたので、それが泣いてくれていたのか、ただ鼻水をすすっていたのか、 結局分からず終いだ。^^;

  互いに郷里に戻ってから文通が始まり、約2年後に差出人(彼女)の名字が突然変わっていた時点で文通 は終息した。 彼女からの手紙も、くれた栞も、一度目の結婚の直前に全て廃棄したので、手元にはもうない。  私もイマジネーションの旅に出たら、失ったものが見つかるのだろうか。