EMSと特許

 EMSと特許との関係について、一部に誤解があるようなのでご説明しておきます。

 私が平成元年に出願し、平成6年に許可された特許の「発明の名称」は、“正立ミラー”でも“EMS”でもありません。  その名称は『正立プリズム』であり、正立ミラーは、その反射面をミラーで代用した応用例に過ぎません。

 識者?の一部の方がEMSの特許に否定的な理由は、「アミチプリズムという既存のプリズムがまず存在し、 単にその反射面をミラーで代用したのがEMSである」、という認識からだと思います。その理解の出発点で誤解がある わけです。

 「アミチプリズムの光路を解析すれば、必然的にたどり付く方法」という意見は、まさに「後出しジャンケン」 の卑怯な論法であります。その時点で“公知”だったかどうか、ということは、常に特許関係の論争で問題になる点 ですが、その時点でEMSのような製品が公知と言えるほど普及していなかったことは元より、その原理を具体的に広く 公開していた実例はありませんでした。

 少なくとも、特許庁は、公知でなかったと判断し、さらに一定の公開期間に、根拠ある異議申し立てもなかった ために、実際に特許として認定されたわけです。

 私の『正立プリズム』は、唯一の反射面を持つ2つの光学素子で構成された90度対空用の正立系であり、入射角 を規定することで、既存のポロプリズム等との違いも明瞭にしています。まして、一つだけの光学素子で構成される アミチプリズムについては、特許庁の審査での比較対象(拒絶理由)にすら上りませんでした。

 つまり、私は全く新規な「正立プリズム」を発明したのであって、そのプリズムのミラー代用系がEMSであると いうことです。

 「特許請求の範囲」では、構成ミラーをまとめて一つのケースに収納したものと、独立したケースに収納して連 結した物を区別しておらず、つまり、初期のワンボックスタイプのEMSも包含された形で特許となったわけです。

 特許庁の電子図書館の検索メニューで、→「特許・実用新案検索」→「公報テキスト検索」を開き、上の公報種 別の「特許公報」にチェックし、出願人の名前に「松本龍郎」を入れて検索されれば、私の特許「正立プリズム」の詳細が 参照できます。(「初心者向け検索」では、平成5年出願以降しか出て来ないようです。)

Knowing nothing is better than knowing things by halves.(衒学者にご注意を!)

Knowing nothing is better than knowing things by halves.
Never trust any second hand information about EMS in the web.

There are too many pedants in the web who believe themselves to be the perfect masters of the principle of the EMS. But, in most cases, they only regard my EMS just as an analogue of the Amici’s Prism and never understand the real meaning of it.

It is a shameful dilemma for them to deny the originality of the EMS, while appealing themselves to be pioneers or something by attributing the principle of the EMS to the traditional optical theory, as if it is a “scoop” or something.

 人はどうやら二次情報や三次情報の方に、より耳を傾ける傾向があるのかも知れない。 しかし、あらゆる分野の情報をwebに求めてみると、その大半は全くの出鱈目か、信憑性を装った不完全なものである。 前者のように、誰が見ても出鱈目がバレているのは、不快ながらもむしろ罪は軽いのだが、問題はむしろ大半を占め る後者の情報だ。後者の情報は、社会への害毒だ。

 しかし、なぜストレートに一次情報を取りに来ない方が多いのだろう。手を受けて待っているのに。 医者がいても、 側にいる看護士の方が話しやすいということだろうか。

 “Knowing nothing is better than knowing things by halves.” という英語圏の諺があるが、EMSのオリジナリティ を否定する衒学者の方々には肝に銘じて欲しい言葉だ。

 15年以上前に某国立大学の名誉教授の先生(光学)とFAXで長い文書を一定期間に渡って応酬したことがあった。この 先生も御多分に漏れず、EMSは単なるアミチアナログという短絡的なご理解であって、ミラーの間隔を調整して目幅調整が出来ること等を理解していただくのに随分と骨を折った。 しかし、最後には兜を脱がれ、鳥取の当方まで見学に見え、自分用のEMS-BINOも注文された。 最後には理解して認められるところが本物の学者先生の偉いところ、ただの衒学 者とは大きな違いだ。

 EMSを既存の原理に帰着させ、そのオリジナリティを否定するのは衒学者の一般的な傾向であり、その意見を発表され るのも自由ではあるが、実は、EMSの新規性を公然と否定してみせることで、自らの知識?をひけらかし、つまりは 自らの新規性をアピールしている姿は大きな“矛盾”であり、私の目には実に滑稽に映るのである。

Decisive Parting / 別れの決断

My parents and my family ate out tonight. The occasion was a farewell dinner for my daughter who will join the medical faculty at the University tomorrow.

It also means I will not have my daughter around to succeed me since she will probably become a Medical Doctor.

“Parting with good grace even in sorrow” has been my policy. Although I have made another decision to part with my Double Barrel Binoscope in my observatory dome on top of my shop, parting with my pride and joy instrument is sorrowful.

The home made dome was constructed 24 years ago and is in need of repairs of which I have no extra time to pursue. Moreover, I have no time to even open the dome because I have numerous back orders to fill for my amateur astronomer customers. So I have made a decision to hand it over to an amateur who I believe will take good care of it and will also appreciate it.

We are never free form parting. So, l will part with my beloved partner with good grace while she is still attractive.

今晩は医学科に進学して行く娘の家庭内送別会のため、 爺さん、婆さんを交えて一家5人で外食をした。 娘が幼時より決めていたコースであったが、これで自分の仕事が子供によって後継されないことが明確となった。

”別れは潔く”がモットーなのだが、もう一つの別れも近付いた。EMSやBINOの製作が本格化してから、屋上のドームが 『開かずの間』になって久しいが、築24年のドームは、さすがにスリット開閉部の老朽化が著しく、主砲のシェルターの役目を全うできない ことが明白になった。中のBINOシステムは全く問題ないのに、ドームがダメになったら、ほぼ一瞬でBINOシステムもダメになる。 それより怖いのは、強風で飛散したドームが通行人に被害を与えること。 かと言って本格的なドーム補修にかける時間も集中力も残っていない。
ということで、この際、中のBINOシステムを希望者に譲り、スリット部は 建築業者に依頼して新たな板金加工で密封し、ドームは物置にすることにした。

別れはいつかは来るのだから、まだBINOの新鮮さが完全に失われない内に、潔く別れよう。

(行き先は決まっています。)

Coo came home! / クー帰る

昼過ぎに2階の家内から内線コール。「アーケードの方からクーの鳴き声が聞こえる!」とのことで、アーケードの屋根に 出て見たが、クーの姿はなし。また階下に降りて外を見回してもどこにもいない。気のせいじゃないか、と私が言ったが、 確実に聞こえたと家内は言う。

アーケードの屋根を叩いてみたら、今度ははっきりと”ニャーニャー”とクーの悲壮な声^^;。何と、二層になっているアーケードの 屋根の段差の通気用の鉄板のフィンの、人間の拳が入らないくらいの隙間から入って、屋根板と天井板の空間にクーは居た。

中に入ったのだから、どこか隙間が広くなっている場所があるはず、と思い、6店舗くらいの間口分を覗いてみたが、どこも 広くない、その間、私の移動をクーが必死で追って鳴きながら助けを求める。この間、結構な雨。大型のスパナを取りに降りたが、 それでも隙間がこじ開けられない。クーが見付かった旨を裏の母に内線し、適当な角材を持って来させる。

片手で角材をフィンの隙間に入れて開きながらクーを引っ張ろうとするが、隙間は十分に開かず、クーも怖がってうまく行かない。 家内に角材を持たせ、 何とかクーを引っ張り出した頃には私はどっぷりと雨に濡れてしまっていた。

一昼夜アーケードの中にいて薄汚くなったクーは今、一日ぶりの食事をしっかり食べ、平和にスヤスヤ眠っている。^^

Coo ran away! / クーが家出

人間で言えば高校生くらいの、推定満一歳のオス猫クーは、日増しに活発になり、外に出たくてしようが なかった。ただ、町中で放すと交通事故が待っている。だから戸締りをする夜以外は、大抵リードに繋がれていたクー。 でも十分に長いリードだったので、そんなに拘束したつもりはなかった。

それでも可愛そうに思い、二階の窓から商店街のアーケードの屋根に出して遊ばせたのがいけなかった。3mの高さは猫にとって、というか 外の世界を希求するクーにとってはさほどの高さではなかったらしい。 昼過ぎにアーケードに出してほんの数分、眼を離した時には クーの姿は見えず、いつ飛び降りたのやら。21時現在、帰って来ない。

いくら猫でもアーケードは飛び降りるにそう低くない。クーよ、お前は満腹と自由を天秤にかけて決めたのだな。しばらく頭を冷やして、 自分の生き方を決めればよい。帰らなくても探さないし、帰ってくれば好物が待っているよ。

Forgive me, “Coo”. / クーちゃん、ごめんよ。

 

昨年の10月に当家に迷い込んだオスの子(中)猫は、娘が『空也』(クーヤ)と名付けた(迷い込んだ子猫に父(祖父)が 思わず「クーや」と呼びかけたのを娘が聞いたのが由来)ので、一昨年に他界した犬のクーと同じ、”クーちゃん”となった。

賢く?綺麗な猫ながら、人間で言うと高校生くらいのやんちゃ盛り、母の体力の限界を超えるほどの暴君ぶりに母も辟易。

昨今の家猫(オス)では半ば一般化した”去勢”なるものを考えざるを得なくなり、11月30日に手術。

「”去勢”は人間の身勝手。それは少女監禁の変質者と同じ行い。」とまで思って悩んだけれど、現実に町なかでオス 猫と共生するには、どうも避けがたいことのよう。

クーちゃん、ごめんね。 見方によれば、法と規範に縛られた僕たち人間も似たようなものだから我慢して。 宦官になっちゃったけど、子供の時に敵に捕らわれて宦官にされながらも、新たな国で重臣となって尊敬を集めた王子もいたように聞いているし・・・。

この前の大雪の日、電気カーペットの上でとろけて寝ていたクーちゃんを見て、ノラになってあの恐ろしい寒さ、ひもじさに 耐えるよりはマシだよな、と勝手に思った。

でも、ばあちゃんの料理は旨いだろう。 松葉ガニには特に目がないクー。 グルメ三昧で、2.5kgだった体重が今や5kg。 デブネコ にならないでね。

2007年を振り返って

 Sky&Telescope誌の1982年11月号で自作の8cm双眼望遠鏡が紹介されてから、25年もの歳月が 流れましたが、私の到達点と一般マニアや望遠鏡業界、天文誌、一般人それぞれとの 理解度、認識レベルのタイムラグは広がりこそすれ、一向に縮まないことを痛感せざるを得ません。

 EMSの開発史の年表を作るとすると、81年頃のAmici Analogue(一体ケース型)のEMSの発案、90年頃の60度偏角 ミラーユニットの採用、95年頃のミラーチルトによるX-Y光軸調整の実現と続き、今年は、(鏡筒固定で)ピント移動のない 眼幅調整(focus compensator)の実現で、少なくとも原理的な部分では、ほぼ積年の懸案をクリヤーした、特別な年だったと言えると思います。

 とは言うものの、ごく一部ながら、EMS-BINOの理解者やユーザーの方々が増えて来たことも事実です。
 そして、恐れていた悲しい別れもやって来ました。 3月にはユーザーリポートも投稿してくださっていたSさんが 、そして12月には、ユーザーサイトとしてリンクさせていただいていたMさんが亡くなられました。
 ご両名のご冥福を心よりお祈りします。また、来年からもEMS-BINOの完成度をさらに高めるべく 精進していくことが、天国にいるご両名に喜んでいただくことだと思っています。

Stray cat / 迷い猫

今日は家族が一人増えた日なので、記録しておかないといけない。

午後3時半頃、昨日からこちらに滞在していた姪とその叔母(私の義兄の妹)を鳥取駅に送る時、(両親の)自宅玄関を開けた 駐車場に、まだ子猫と言うべき若い(満1歳未満か?)猫が迷い込んでいて、妙に人懐っこく甘えて来た。 家内を残して駅で来客を見送って帰宅 したら、なんと家内が店の中でその猫に鰹節(削り節)をやっていた。首輪も付けておらず、痩せこけてはいないものの随分と 食べていないようで、なんとも凄い食欲。

「駐車場から店まで付いて来たけど、店のシャッターを開ける音に驚いて逃げるだろうと思っていた。  ところが、シャッターが少し開くと、猫はスルっと店内に入ってしまった。」との家内の証言。  そうこうしている内に高3の娘も帰宅。 普段なら、心を鬼にして追い払うところながら、今回は不思議な縁で、家族全員満場一致でそ の子を受け入れることになった。 先月には両親を連れて因幡霊場で催された犬猫の合同慰霊祭(クーの一周忌)に参加して来たところでもあり、両親の心の 空洞を埋めるために機は熟したと言ったところのようだ。

諸条件から、両親の家で飼い、私たちもアシストすることにした。慌てて家内と一緒にホームショップに行ってトイレを 含む猫グッズを購入。 トイレのしつけの心配をしていたら、トイレに紙製の猫砂を入れるやいなや、彼(オス猫)は 待っていたように率先してご使用になった。まさに完璧な『猫』。 いずれ画像でご紹介します。(10/12 画像追加)

「このメガネ、皺(しわ)が見えます!」

中年期を過ぎて、それまで潜伏していた遠視が顕在化し始めた方は本当に扱いにくい。もともと視力には人一倍自信を持って 来た方ばかりなので、こちらに来店されるまでに相当痩せ我慢を続けられ、耐え切れなくなって、大嫌いなメガネ屋に来られたは ずなのに、皆さん、極めて往生際が悪い^^;。

正視の人が老眼になったのであれば、「近業時のみ、仕方なく嫌いなメガネを掛ける。」という選択も アリなのだが、遠視は残念ながら、そうは行かない。遠方視の際にも、近業用メガネ(老眼鏡)よりも少しプラス度数の弱いメガネ を装用しないといけない。 もちろん、それを装用しないと警察に捕まるわけでもなく、当人が納得しないなら放っておくしかない。
ただ、はっきりと言えるのは、掛けないとたちまち世界がボケて見えてしまう近視は、メガネを掛けなくても眼の調節機能には 全く負担をかけないが、掛けなくても遠方は結構見えてしまう遠視は、放置しておくと、生理的な負担が大きく、眼や体を蝕むと いうことだ。このパラドックスがなかなか理解してもらえない。

第一、主婦であれば、ある程度の遠視を放置したまま台所に立つことは、家族にとって不衛生極まりないということを自覚すべきなのだ。 また、いつまでも美しくありたいと思うのなら、まずは自らをはっきりと見つめないといけない。

頑固な遠視の初老のご婦人をやっとの思いで説得して、メガネを仕上げても、まだ全てのハードルを越えたわけではない。
仕上がった遠視のメガネを受け取りに見えた時がまた問題なのだ。メガネを掛けて店内の鏡を見たご婦人が悲鳴と共に、こう叫ばれる ことがあるからだ。

「キャーッ!! このメガネだめです。シワが見えます~!!!」

私はそれに対していつも手厳しく答える。

「気にしないでください。人には始めから見えています。ご自分が見えるだけです。」

だから、当店の本業はいつまでも発展しないのか??
(でも後でフォローもしますよ。「お友達のシワも見えるから、自信を持てますよ。」)

タイムラグ(Time Lag)を考える

 タイムラグという言葉は、もはや日本語になっているが、a time lag というのは和製英語でなく、 れっきとした英語だ。”lag”は、lag behind~として使われることが多く、Genius英和辞典の例文には、 ~behind the rest of the nation in economic reforms. とある。 意味は、文字通り、“時間の遅れ”のことであるが、やはり“タイムラグ”の方がよりピンと来る。

 タイムラグというのは、どんな場合でももどかしいものであるが、人間が絡むと特に歯痒く、深刻になる。悪意は瞬時で伝 わるのだろうが、善意はなかなか伝わらないか、逆に誤解さえされ得るし、一旦誤解されたら、その誤解を解くには時には何十年 もかかるか、一生解けない。

 科学的な成果にしても、その時代の水準を超えて画期的な物であればあるほど、認められるのは後世を待つことになり、 数百年後にやっと認められるようなケースが希でないことを科学史が証明している。

 タイムラグということを、今の自分にからめて言うと、たとえば、1.新製品の構想と、2.その実験、試作、検証と、 3.Webでの公開と、4.一般への認知、までにはそれぞれの段階でタイムラグがあり、そのもどかしさはいつまでも埋まることは ない。

  ただただ、新たな成長の節目の到来の予感に、一人武者震いするしかない今日この頃…。   自分が常に進化しているということを主張し続けて、じっと時が来るのを待つしかないようだ。