15cmF5-BINO in Australia

Milky Way by Mr.Okada
SHWARZ150S-BINO
C.Neat by Mr.Okada

 今晩は、ID21番のトラです。今日、オーストラリアから帰国いたしまし た。明日からアメリカ出張なので、とりいそぎレポートいたします。

 今回は、東京のコプティック星座館が企画したツアーに参加し、2004年5月15日から 23日までの日程で、2つの彗星と南天の観望に行ってきました。観望場所は、ニュー サウスウェールズ州クーナバラブランという、サイディングスプリング天文台のある 村の飛行場と競馬場です。飛行場に設置したシュワルツBino150Sの写真を添付いたしま す。

 機材は、シュワルツBino150S、ニンジャ320、ニコン18×70IF、ニコン7×50SPで、これ らを仲間と分担して持ち込みました。写真用の機材は諦めました。

 彗星については、地平線にあるユーカリの枝葉の真っ黒なシルエットの間から、リニ ア彗星がその筋模様の尾や青緑色のコマを見え隠れさせながら没していく様子を見る ことができました。立体感のある地上風景と彗星とを、同時に自然な美しさで観望で きたのは、空の透明度と15cm双眼の組み合わせによる幸運でしょう。

 天の川は、非常に明るくて星の密集度も高いため、どの部分がカタログ番号を付され ている星雲星団で、どの部分がそうでないのか区別するのが、時折困難でした。濃い 銀河の中に濃淡・大小さまざまな暗黒星雲が浮かんでいる様子を広視野の双眼で見る と、(星空を背景に星雲星団が浮かび上がってくるという通常の見え方とは異な り、)深い凹凸のある影を伴った面のように見えました。

 もちろん、個別の星雲星団についても、極薄緑から淡い小豆色のグラデーションと暗 黒の襞のあるエータカリーナ星雲、不気味な泡状の暗黒部分があるタランチュラ星 雲、中心まで完全に分離している(シンチレーションが感じられない)満月サイズの オメガ球状星団、ディスク状の中心を持つNGC104球状星団、圧倒的星数のNGC3532 散開星団、内外に多数の小さな散開星団が散らばる大マゼラン銀河、暗黒帯内部の濃 淡までみえるケンタウルスA電波銀河、フィルターなしで無数の微光星を背景に浮か ぶ網状星雲、UHCフィルターで淡い複雑なフィラメント構造を見せるガム星雲、 等々、写真のイメージをはるかに超える生の姿を擬似立体感をもって楽しむことがで きました(とはいっても、一番楽しめたのは、180度に広がる巨大エッジオン銀河、 つまり天頂にバルジのある天の川の肉眼視でしたが)。

 幾晩にもわたって徹夜で観望をするので眼の疲労が心配でしたが、アイリリーフの長 いアイピースを使っての双眼観望、毎日のビタミン剤摂取、昼間の爆睡により、ある 程度まで眼の疲労を軽減することができました。

 普段、見慣れない南天では、エンコーダによる導入・対象確認が大変役立ちました。 知らない土地でこそ、カーナビも活躍しますよね。

 ところで、海外への運搬方法については、今年のお正月から松本様にご相談にのって 頂きながら検討を開始しました。国内の移動観望で何度も試行錯誤を行った末、今回 実施した主な工夫は以下の通りです。

(1)鏡筒のラッパ部分と合焦装置との間で鏡筒を分解し(ここが最も光軸が狂うリ スクが少ない)、また、フードを巻きつけ式のものに交換して、鏡筒長を短縮する。

(2)合焦微動ハンドルの側面の抜け止めネジを緩め、微動・粗動軸を合焦装置から 分離し、ショックを受けた場合の微動・粗動軸の狂いを防止する。

(3)三脚と三脚架台をぎりぎり使用に耐える程度の小型軽量のものに交換する。

(4)鏡筒を固定するプレートの耳軸を、HF経緯台のフォークの耳軸受けで締め付 けた上で梱包し、耳軸方向へのショックを受けた場合のプレート耳軸とフォークの両 方への損傷リスクを軽減する。

(5)全てのネジの上にテープを貼りつけ、振動によるネジの緩みや紛失を防止する と共に、予備のネジと軽量な工具一式を持って行く。

  今回は、松本式双眼望遠鏡をオーストラリアに持ち込めたおかげで、彗星や南天を より美しくリラックスして楽しむことができました。このような機材を製作していた だきましたこと、心からお礼申し上げます。

「トラ」
Comment by Matsumoto/ 管理者のコメント;

「トラ」さんより、オーストラリア遠征のリポートをいただきました。
  写真から、現地の広大さを感じますが、実際に体験すれば、こんなものではないのでしょう。

  濃い銀河の中の暗黒星雲等の描写を読まれ、居ても立ってもいられなくなった読者の方も多いのでは、と想像します。
  私も「180度に広がる巨大エッジオン銀河」と言う体験をしてみたい!

  オーストラリアまでの150S-BINOの運搬にも周到な準備をされました。 最初から搬入を諦める方も多いと思いますが、 見事な実例を作ってくださいました。

親思う心にまさる親心

毎日地方紙の「おくやみ欄」を見るのは母の仕事だ。 小さな個人商店であっても、数千名の顧客リストの中には、数日おきに 該当者(もしくは家族)が見つかってしまうのだ。

「大変、Kさんの息子さんが亡くなってる!」

Kさん(男性78歳)は30年以上前、累進焦点レンズが市場に出始めて間もない頃の当店で第一号の累進レンズ のお客さんであり、以後ずっとひいきにしていただき、1週間前にもレンズの更新をさせていただいたばかりだった。

温厚で紳士的な人格も印象深く、また役所を定年後に始められた仏像等の木刻の出来映えは、アマの域をはるかに超えて心を動かされるものがあり、 その方より機会あるごとに頂いた作品は我が家の家宝になっている。

ただ、全てのお客さんの慶弔にお付き合いするのは、現実的に不可能であり、弔問はその時の微妙な判断に従うことになり、 お世話になっていながら失礼してしまうこともあるので、その点、この場でお断りをしておかないといけない。

ただ、今回のKさんの場合は、逆縁であることを含めて、何としても弔問に伺わないと気が済まないケースだった。

付き合いの長さから言って、両親が行くのが良いと思い、また道路地図によると、そう分かりにくい場所でもなさそうだったので、 敢えて両親に行かせることにした。

1時間弱で帰って来た母の顔が赤く、泣いた跡が伺えた。逆縁なので、とても涙無しには帰れないだろう。当然目的を果たして 帰って来たと思い、「どうだった?」と私が尋ねると、「行かれんかっただが。もうお父さんはダメだわ。」と母は泣きそうな顔をしている。   車を置いてから少し遅れて店に帰って来た父も、「わしゃあ、もうダメだ。」としょげている。

父母は「お前が行ってくれ。」と言ったが、私は敢えて父を助手席に乗せて行くことにした。役に立たなかった音声ナビゲーターの母は留守番だ。
道中、目印をなるべく父に確認させるようにして走った。父はほぼ理解しているようだが、建物や道路が新しくなっていて 混乱しているようだった。15分ほどで先方宅の近所まで来た。地図を見た段階で車の横付けは無理のようだったので、大きな道路の 脇に駐車し、徒歩で迷路っぽい住宅地の中を探したが、ほどなくKさん宅は見つかった。

万が一間違いだったら大変だと心配したが、玄関先に葬儀用の花が飾ってあったので良く分かった。    玄関の戸を開けると、大勢の親族の方が焼香の間で食事をしておられる様子が伺え、対応に出た女性に 「おじいちゃん」を呼んでいただいた。

Kさんは大変喜んでくださり、大勢の親族の方で満杯であるにもかかわらず、そこで焼香をさせていただくと、ぜひ 作品を見て欲しいとのことで、父と私はKさんに従って奥の部屋に案内された。   その部屋の床の間にはいずれ劣らぬ木刻の作品がびっしりと並んでいた。大体50cm程度以下の大きさの像だが、 恵比寿さん、弥勒菩薩、仁王像、観音像等、どれも緻密な彫りで、全体のバランスもすこぶる良かった。特に観音像の 衣のひだが、とても木という堅さを持った素材から成るとは信じ難い柔らかさと優美さを見せていて、舌を巻いた。

Kさんは、作品の解説をするばかりで、いつまで経っても亡くなられた息子さんの話をされなかった。 敢えてお尋ねすると、やはり癌だった。 20分ほどお話をして、私たちは失礼した。

Kさんは外に出て見送ってくださった。細い路地の曲がり角まで来た時、 振り返ったら、まるで戦場に息子を送り出す老母のように、まだ家の前に立って見送っておられ、私たちの帰り道の方向を腕で示してくださっていた。 立派な体躯のKさんだが、遠かったので、 木彫りの仏像くらいに小さく見えた。
小さくなるKさんの姿に反比して、最後まで涙を見せなかったKさんの哀しみのオーラが、この時一挙に吹き出した のを背中に感じた。

子供さんが目指す高校に合格し、喜んでいた矢先に様態が急変、老親と妻子を残して逝か れた息子さんの無念もその波に混ざっていた。

突然、「親思う心にまさる親心 今日のおとずれ何と聞くらむ」 という、吉田松陰が処刑される前に詠んだ句が 聞こえて来て、目が霞んだ。

グリーン・フィールズの幻想曲(1)

  先日、若いご夫婦がEMS-BINOの見学に見えた。  (後でご主人と私との年齢差は十程度だったと知るが、お会いした時の印象はそうだった。)

  かねてより私の双眼望遠鏡に興味を持たれ、佐治アストロパークへの道すがらに立ち寄ってくだ さったのだ。さっそく展示していた口径10cmの双眼望遠鏡を店先に持ち出し、付近の風景を見ていただいた。

  普段愛用しておられる市販の双眼鏡よりも、さらに強調された松本式双眼望遠鏡の立体感と臨場感に、 奥さん共々たいそう感激してくださり、調子に乗った私はその後、屋上のドームの15cm双眼望遠鏡もご案内していた。

 翌日、帰宅されたご夫妻より丁寧なお礼のメールが届いた。 署名の下のホームページのリンクを辿らせていただくと、”Bar April Moon”の看板に促され、 ためらわず入店。 店内は余計な物が置いてなく、むしろやや閑散としていた。しかし、そこ にいると妙に落ち着き、出迎えてくれたエッセイや絵手紙に、忘れかけた物を思い出させられたよう な感じがした。

  さらにそこからリンクしているウェブマガジンに掲載された他のエッセイも読ませていただき、 宮脇さんの感性と文才に非凡なものを確信し、さっそく”宮脇昭好”さんの実名をwebで検索してみた。 すると、いきなり「グリーン・フィールズの幻想曲」という空想小説に至った。 確認したところ、 やはり著者はご本人と分かり、本書を送っていただく。

  小説は、主人公の青年が十年前に自殺した”1時7分の蛙の女の子”のルーツを探す経緯を空想的に 描いている。 コスモス文学賞受賞作だけあって、構成や表現に唸らされ通しだった。

 内容について詳しくコメントさせていただくつもりだったが、二回目を読みながら、自分には軽々しい コメントはまだ出来ないと思った。ただ、早くご紹介したいので、取りあえず簡単にご紹介し、もっとじっく り読んでから、後日改めて感想文の続編を掲載させていただくことにする。

  ただ、”蛙の女の子”は人間の女の子だ。 彼女は主人公と同じ、大学前の安アパートの隣の部屋に 住んでいた。 主人公は、父の自殺のために大学を退学して郷里に帰る前夜の彼女と初めて口を利く。 その夜、彼女は何もしないことを条件に主人公の部屋に泊まる。十年後に彼女の足跡を辿る旅の途中で立 ち寄る”象牙の塔天文台”は、いかにも星を愛する宮脇さんらしい設定で、天文台スタッフも奇妙に魅力的だ。

  後は本を読んでのお楽しみ。ラブ・ロマンスではない。私のように夢とイマジネーションを失いかけた 人にはお勧めの一冊だ。「日本図書館協会選定図書」にも登録されているので、 大きな図書館には蔵書として備えてあるはず。

  この本のストーリーとは関係ないが、そう言えば、私も専門学校卒業の日に、気になっていた級友の 女の子に、口から飛び出そうとする心臓を呑み込みながら初めて声をかけたことがあった。 (小説では蛙の女の子が声をかけた) 学校前の喫茶店で長い手紙を彼女に読ませた。読みながら時々鼻を すすっていた彼女は風邪をひいていたので、それが泣いてくれていたのか、ただ鼻水をすすっていたのか、 結局分からず終いだ。^^;

  互いに郷里に戻ってから文通が始まり、約2年後に差出人(彼女)の名字が突然変わっていた時点で文通 は終息した。 彼女からの手紙も、くれた栞も、一度目の結婚の直前に全て廃棄したので、手元にはもうない。  私もイマジネーションの旅に出たら、失ったものが見つかるのだろうか。

日本人「十万分の一の肖像」

今日、知らない方から大きな封筒が届いた。確かに宛名、住所は私に間違いない。
表に、「写真在中」と「折り曲げ厳禁」 のスタンプが押してある。首をかしげながら開封してみた。
写真と添付文書を見て、直ちに事情を理解した。

添付文書

日本人「十万分の一の肖像」

1999年5月から始まった私の自分探しの旅も2001年2月に最後の1200人目の人を東京で無事に撮影して 終了となりました。 その後、膨大な量の現像、プリント作業を2002年の夏までかかって写真を仕上げました。 撮影を快く受けていただいたみなさんに出来上がったプリントをお送りすると言っていましたが、やっと 準備が整い発送する事になりました。

多分写真を写された事さえ覚えていない人もいるかと思いますが、私が感謝の気持ちを込めて焼いたプリントです、 どうぞご笑納ください。

この写真が写真集というまとまった形になるのか今の私には判りませんが、みなさんの お陰でとても素晴らしい経験ができました。

本当にありがとうございました。

河野公俊

東京都***********

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写真家の河野さんは、上記の通り、全国を単身で行脚して1200人のポートレートを撮影されました。 原画は階調が豊かで非常に美しい写真ですが、デジタルに忠実に再現できませんでした。

数年前の写真に感慨がこみ上げました。

現像、プリントにも相当の歳月を費やされましたね。1200人それぞれの人生、想い、また、その編集に携わった 河野さんの情熱に思いを馳せると、胸が苦しくさえなります。

河野さん、ご苦労様でした。 写真集が一日も早く発行できますように、お祈りしています。

甥の結婚式

甥の結婚式のために福岡に行って来た。

ホテルのチャペルでの挙式は最近は多いらしく、ドラマでもお馴染みではあるが、自分には とても新鮮で良い感じがした。親戚、友人にも神官や僧侶がいるので悪いが、訳の分からない祝詞(のりと) やお経を痺れを切らしながら聞いているのより、ずっと良かった。

新婦が若い男性にエスコートされて出て来た。新婦入場だ。   それが、お父さんであることを理解するのに数秒かかった。 予備知識にあった大学教授のお父さんの イメージと結びつかなかったのだ。実際、お父さんもお若かったのだが、結局は自分自身が適齢期のカップルの 親の世代にさしかかっていることに否応なく気付かされた。それらが目まぐるしく数秒の間に頭の中で展開した。

一度鳥取で会っている新婦は、ウェディングドレスに包まれて掛け値無しに美しかった。すらりと伸びた背は お父さんより高かった。新郎もそれに負けずに凛々しく美しく、安心した。

 

新婦入場の後、賛美歌312番を皆で合唱した。

いつくしみ深き 友なるイエスは、
罪とが憂いを とり去りたもう。
こころの嘆きを 包まず述べて、
などかは下ろさぬ 負える重荷を。

途中で声が詰まって最後まで歌えなかった。

 

立派な体格の白人牧師(?)だったが、ややなまりのある日本語が返ってありがたく聞こえた。

聖書の引用は、一般的な「コリント人への第一の手紙、第13章」だった。

“The first epistle of Paul to the Corinthians”
聖パウロがコリント(古代ギリシャの都市?)人の信者に宛てた手紙だそうだ。
(パウロはイエスの使徒だが、もとはキリスト教徒を迫害する熱心なユダヤ教徒であって、イエスの死後に キリストに帰依した。だからイエスの生前の弟子である12使徒の一人ではないそうです。)

1.たといわたしが、人々の言葉や御使いたちの言葉を語っても、もし愛が無ければ、私は 、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
1.If I speak with the tongues of men and of angels, but do not have love, I have become a noisy gong or a clanging cymbal.

2.たといまた、私に預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、また、山を 移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、私は無に等しい。
2.And if I have the gift of prophecy and know all misteries and all knowledge; and if I have all faith, so as to remove mountains, but do not have love, I am nothing.

3.たといまた、私が自分の全財産を人に施しても、また、自分の体を焼かれるために渡しても、 もし愛がなければ、一切は無益である。
3.And if I give all my possessions to feed the poor, and if I deliver my body to be burned, but do not have love, it profits me nothing.

4.愛は寛容であり、愛は情け深い。 またねたむことをしない。 愛は高ぶらない、誇らない、
4.Love is patient, love is kind, and is not jealous; love does not brag and is not arrogant,

5.不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
5.does not act unbecomingly; it does not seek its own, is not provoked, does not take into account a wrong suffered,

6.不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
6.does not rejoice in unrighteousness, but rejoices with the truth;

7.そして、全てを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、全てを耐える。
7.bears all things, believes all things, hopes all things, endures all things.

この辺りまで読まれたと思うが、この章は13節まで続く。

牧師による説教に続き、カップルの誓約、指輪交換、署名、等を経て賛美歌の430番の合唱を経て新郎新婦 の退場を見送った。

披露宴の席は、新カップルのなれそめからして当然ながら、ほとんど**大学医学部の教授や関係者で 占められ、多くの方が温かいスピーチをくださり、突然スピーチを指名されるのを恐れていたが杞憂に終わった。

新婦のお母さんもスラリとした美人で、妙に納得した。 ただ、新郎側の母親の席に座るべき私の姉の姿が 無い事だけが、残念だった。

新郎側の親族を見て、ここでも世代の交代をしみじみと感じた。甥と姪はもとより、一度はかつて”馬” をして背中に乗せた記憶がある、その従兄たちがそれぞれに、立派な医者になり、母親になっているではないか。  3年前の姉の葬儀でも会っているのだが、今回ほどそう感じたことはなかった。    姉はすでにいないが、義兄の親族は私と両親を温かく迎えてくれた。

新郎側に欠けている人はもう一人いた。義父さん(新郎の父方の祖父)だ。十年ほど前に他界され たが、診療医として地元の信頼が厚かっただけでなく、苦学して医者になられたことを裏付ける人格者だった。俳句でも有名で、遠賀野の地には義父さんの句碑が建っている。 句集「遠賀野」は今でも私の書棚にある。句集には姉と義兄の結婚当初の事が詠まれてるものもあり、それからも義父の人柄と慈愛が読みとれる。   元来、眼鏡屋は眼科医にコンプレックスを持っているのだが、そんな私たちにに劣等感を懐かせない配慮をされる方だった。

私の父は、10人兄弟の六男として生まれた。古い家父長制度下で、家に尽くすために生まれたような ものだった。 長男が祖父の後を継ぎ、次男は自宅と地元の百貨店への出店を安堵され、三男は隣の都市に店を 出すきっかけをもらい、四男、五男は戦死、六男が父、七番目は長女だったが幼児期に怪我で死亡、八番目も女で、 末っ子になるはずだった七男に加えて八男が出来たので、八男は親戚に養子に出された。今思うと、祖父の身勝手さには 呆れるしかない。 末っ子の七男を溺愛した祖父は、七男を歯科医にすることにした。二人の息子を戦死させた ことで、何とか末っ子の召集を延ばしたいと考えたのだろう。

父は、結婚後も本家の時計の修理部門を主に担当していた。 現状で将来の希望がないことを感じた父は、祖父に 言った。「独立させて欲しい。」
祖父は「経営というものは大変なんだぞ。仕入れから、経理のことまで、お前に出来る訳が ない。家という木の幹を太らせてこそ、枝や葉が茂るのだ。」と言った。
その後、また父は言った。「それならせめて、時計部門を 私に任せてください。でないと将来の希望が持てません。」
それに対しては、祖父も「まあ、お前の立場からすれば それもそうだな。今度長男に相談してみよう。」と言ったものの、その後の祖父からの返事は、「長男がいやだと言っている。 今となってはわしも強制することはできん。」というものだった。
父は誰の力も借りずに、ほぼ無一文で独立することを決意した。
家を出ると、本家には、翌日にはもう他人の修理技術者が入っていたという。

両親は、母が独身時代に勤めていた材木会社から材木を安く買い、それをリヤカー(人力)で運び、壁土を練って空き地を借りて 平屋を建てた。ショーケースもウィンドウも無い、時計修理屋としてのスタートだった。  前置きが長くなったが、長姉の事を話す前に、両親のスタートの経緯をどうしても話しておく必要があるのだ。

私は長姉より五つ年下なので、貧しさの記憶はさほどないが、長姉は両親の苦労を肌で知っていたようだ。

周囲の反対を押して独立した両親の困窮と不安は半端なものではなかった。子供が病気になったら大変だということで、 父は銭湯で、湯から上がると、厳冬期でも、長姉に足洗い用の冷水槽の水を頭から被せた。父は呆れ顔の他の入浴客の視線を 感じながら自分も冷水を被ったと言う。それが功を奏したかどうかは知らないが、長姉は小学校の6年間、一日も 学校を休まなかった。
長姉は物心付くと家事を手伝った。踏み台に乗って料理の手伝いさえした。ある時、煮え立ったみそ汁の 鍋を前にして、長姉はたすき付きのズポンを履いていた。
振り返り際に、たすきが鍋の柄にひっかかり、煮えたぎるみそ汁は 容赦なく幼女の背中を襲った。重度の火傷を負いながらその時姉が叫んだ言葉は、「熱い!」ではなく、「ごめんなさい!」の泣きながらの連呼だった。  「家族の食事をだめにした事しか頭に無かった。」と私は姉から直接聞いている。背中のケロイドは徐々に縮小したが、名刺の半分くらいの 大きさのケロイドが肩胛骨の辺りに勲章として最後まで残った。

私が産まれた年、まだ明るい内に私を銭湯に連れて行っていた母が銭湯の窓から遠くの空に一筋の煙を見た。 川向こうのようなので、気の毒だと思いながらも その時は気にとめなかったと言う。 それが鳥取大火であった。昭和27年のことである。被災人口2万人以上、焼失面積160ヘクタール、焼失家屋5000戸以上の 大火災だ。 本家とは徒歩で5分とかからない距離ながら、父は火元に少しでも近い本家の家財の退避の手伝いに行き、母は幼児を3人(私と次姉と長姉)かかえて ただ泣きながら右往左往していたという。近所の人は「松本はなんと剛胆なんだろう。この期に及んで何も家財を出さないんだから。」と噂していたそうだ。   本家の家財の搬出は出来たが、やがて火の手は本家にも至り、本家は焼失した。 ぎりぎりの所で自宅は助かったが、父が本家の家財の持ち出しに使用していた自転車が、どさくさで盗まれてしまった。  当時では運搬道具としては、軽自動車くらいの意味があったものだ。もちろん、本家は知らん顔だった。

長姉は勉強も良くした。貧しかったので、一度も塾の類に行った事もなく、家庭教師にも付かなかったが、学業は常にトップだった。  中学くらいになると、両親も長姉には一目を置いていたようだ。 ただ、この頃から医学部に入る頃までの姉は 少々自己中で気難しい所もあった。 闘病中の姉にこの頃の事をメールで話題に出すと、「胸が痛むからやめて、すまなかったと思っている。」と言っていた。   姉は奨学金を受け、家庭教師をしながら国立大の医学部を卒業した。姉の教え子は何人も医者になっている。   私もたまに姉に勉強を習ったが、私がしつこく質問するので、たいていは喧嘩になった。

今振り返ると、姉が人間として成長したのは、結婚し、子供が出来てからではないだろうかと思う。   さらに闘病の末期にピークに達し、ついに人を越えて昇天したのではと思える。

末期には次姉が何度も松江から福岡まで通って献身的に介護した。 それには次姉の夫の深い理解が背景にある。   次姉の夫は長姉の医学部時代の同期生だった。 姉が入院していた癌病棟の主治医には私は良い印象を持っていない。  姉はきゃしゃな体格で、またその軽い体重以上に薬品に敏感であり、抗ガン剤の影響も強かった。何度も投薬量の調整を 依頼したが、担当医は「80歳過ぎの婆さんでもやっているのに・・・」と全く取り合わなかったと言う。

案の定、姉は抗ガン剤の過度な副作用で危険な状態になり、初めて担当医は慌てた。 やがて肺に水が溜まるようになり、見かねた次姉の夫が自分が院長を勤める松江の 病院に長姉を呼び寄せ、そこで奇跡的に少し改善する。一時退院し、次姉の家にも滞在し、次姉の愛犬のお産にも立ち会った。

長姉は最後は福岡で逝ったが、最後の1か月は母が付いた。しかし、父は少し前に切迫心筋梗塞で手術を受けており、その間、次姉夫婦が松江で父を預かってくれていた。   長姉は、自分が医師として出発した頃に子育てで数年間勉強を離れて非常にマイナスだったので、自分のために子供の人生を狂わせることを 徹頭徹尾拒んだ。 だから、自分の娘に「介護のために大学院を休学してくれ。」などとは口が裂けても言わなかっただろう。   ただ、命の終焉を迎えて、どんなにか心細かっただろうと思う。長姉は介護する母に言ったという。「妹を産んでくれててありがとう。」
どんな苦痛にも弱音を吐かなかった長姉だが、一度だけ、まだ鳥取にいた母の携帯に泣きながら電話をかけて来た事がある。それも、一見些細な事だった。 部屋に備えていたナプキンが無くなったというのだ。義兄は心から姉を愛し、献身的に尽くしてくれていたが、やはり介護には女手も必要なのだろう。  その頃、姉の癌はそこらじゅうに転移し、大腸も閉塞して人工肛門になっていた。
その時の母の狼狽ぶりは今でも鮮明に覚えている。母は直ぐに長姉の自宅の前のKさんに泣きながら電話を入れた。夕食時だったにもかかわらず、 Kさんはナプキンを買うと、姉の病院まで車を走らせた。同じ北九州でも、病院までは片道1時間もある距離だった。Kさんの消防士のような素早い対応に 私たちは鳥取の空の下で泣きながら手を合わせていた。
必ずしも体調が万全でない夫と、人と同じくらい賢く、人への依存度の高い愛犬を家に残して、長期に渡って何度も姉を介護した次姉夫妻の 犠牲は計り知れないものがあった。 次姉は母に言った。「姉ちゃんは幸せだよ。これだけみんなに惜しまれ、愛されて逝く。私の時には誰が見てくれる と思うの。」 次姉には子供がいないのだ。
次姉は闘病末期の姉に聞いた。「お姉ちゃん。今一番大切なものは何。」
長姉は小さい声で答えた。「患者さん。」
長姉は体力が続く限り自分の患者も診続けていた。
まさに鉄の意志を持った医師だった。

医者になるのも難しいが、人間になるのはもっと難しい。 これから結婚する者にはそれが言いたい。

昔の日本人は滅私の心を持っていた。「滅私」とは、「滅私奉公」の滅私だ。
あの蜂谷弥三郎さんもその典型だ。蜂谷さんの体験は、どうしても旧ソ連での抑留体験に視線が集まるが、関連著書をいくつか読ませていただくと、 ソ連での体験をされる以前に、すでにそれこそ橋田壽賀子さんの「おしん」に匹敵するほどの波乱と苦悩に満ちた 人生を歩んでおられる。 真田紐を作る工場を経営していた蜂谷さんのお父さんは、発明の才があり、5本の 紐を一緒に織る機械を考案し、生産革命をもたらしたが、親族を含む同業者の猛反発を受け、破産にまで追い込まれた。

蜂谷さんが小学校2年の時だった。私たちから見ると、破産後のお父さんの行動は、一度頂点を極めながら脱落した人が辿り勝ちなように、 決して良い夫、父親のそれではなかったように見える。再起のために蓄えた金を投機に手を出してすってしまい、しばらく家に帰らなかったりした。
立ち直ったお父さんが蜂谷さんを除く家族と朝鮮で暮らしていたころ、蜂谷さんは日本で安定した職に就き、将来を誓う伴侶も決めていた。  当時、体調を崩しかけていたお父さんからの渡鮮の要請に躊躇しながらも、長男としての自覚から、蜂谷さんは久子さんと共に 朝鮮に渡ることを決意する。

その後の概略はテレビでも紹介されている通りだが、ここで言いたいのは、蜂谷さんが被って来た 試みは、全て身から出たものではなく、自分よりも他を思いやる心、つまり滅私の心が図らずも招いたものだった。   朝鮮に渡った動機もそうだが、安岡という卑劣漢に同情し、自宅に招いたことが蜂谷さんの運命を決定付けた。

しかし、どんな逆境の時でも、ごく一握りの清い魂が蜂谷さんのそばにいたことに私たちの心は救われる。酷寒の収容所で 汚物にまみれて死を待つほどに衰弱して異臭を放つ、他の日本人の囚人でさえ近寄らなかった蜂谷さんを気遣ってくれた中国人の年輩の囚人がいたし、強制労働に出る時には 一人で歩けない蜂谷さんを両脇から支える朝鮮人の囚人がいた。また、目をかけてくれ、自宅で食事にまで招待してくれた収容所長。そして、救いの女神クラウディア。  蜂谷さんやクラウディアさんの体験談を読むと、人の魂の輝きの評価に、時代も場所も国籍も宗教も関係ないことが断言できる。

私の父の事も、事実を客観的に述べたが、父自体は大火の時の行動が証明しているように、本家を恨んだりしていない。 付き合いは現在まで普通に続いている。 ただ、父が困窮の渦中にいた頃は、親戚は近寄らなかった。   私の3歳の節句の時、誰も祝いに来ないのに業を煮やした父は、なけなしの金をかき集め、店屋で一番 大きな鯉のぼりを買って帰った。 家の谷間の小さな庭で、鯉は泳がなかった。

個人の自由を圧迫していた古い家父長制度から開放された私たちだが、振り子は 適正位置で止まらず、曲解された過度の個人主義が蔓延し、どんどん反対側に振れて行く気がする。家内は私を世界一親孝行な息子だと言うが、そうではない。  私はただ人間になりたいと思っているだけた。 イエスは言った。「あなたの右の手が盗みをするなら、その右手を切り落としなさい。」と。    私に最終的に残るのは髪の毛くらいかも知れない。

2004年3月1日

ED115-BINO

1.使い勝手編

 1-1.光軸調整:

   初期組み立て時に、左右のアイピーススリーブが平行になるよう EMSを(結構適当に)装着し、いきなり恒星を200倍で見ました。   それでも左右の像は一致しました(もちろんXY調整機構は使用しましたが)。 結構心配していたのですが何の問題もなし。ただその後昼間に見たら 少々狂っていました。やはり基本に忠実、昼間にあわせたほうがいいですね。

 1-2.合焦部分:

   第4世代用の合焦装置、使いやすいです。
   動きが渋めなので高倍率での調整時にはさすがに像は揺れますが、ガタや   バックラッシュが全くないのでピント合わせ自体はしやすいです。
   しゅう動抵抗が大きいので、粗動のほうはあまり使わないことが前提に なっているみたいなのですが、アイピース交換時に大きく移動させるときは 微動の調整範囲内でも、微動で送るより粗動の方が使いやすかったです。
   ただ大きく動かすのは、ピント位置が他と大きく異なるNagler22mmと他の アイピースと交換するときだけで、その他の場合は一度バックフォーカス を調整したらその後粗動を使うことはないです。

 1-3.目幅調整:

   スライド式の目幅調整ですが、簡単に目幅が合いました。 ヘリコイド式と、どちらがいいかは一長一短ですが、私はスライド式で十分満足です。

 1-4.全体的に

   何のストレスもないです。長年の工夫がたくさん反映された結果だと 思います。すばらしいです。

2.見え方編
 (空は街中、4.5等が見えるくらいの感じです。)

 2-1:低倍率

   M35,M41,M42,M44,M45などの大型の星雲星団を見てみました。   アイピースはNagler Type4 22mm(30倍)とPENTAX XL40mm(17倍)です。    手持ちの小型双眼鏡と(当然)全く違う光量で、街中でもこれらの   星雲星団は見て面白い程度に見ました。
   90°対空双眼なので本当に楽に長い間のぞけます。ひとたびのぞくと、 気づくと結構長い時間がたっていたりして、びっくりします。
   早く夏の天の川を見てみたいところです。

 2-2:高倍率

   土星、木星を見てみました。
   アイピースはMeade UW6.7+TeleVue バロー2.0x (200倍)です。    シーングは何とかこの倍率が使える程度。
    像は感動ものでした。    単眼に比べ像劣化が全くなく明るくなっている像です。しかも単眼より   同じ倍率でも大きく見えます。特に木星は200倍なのにとてつもなく大きく見えました。
   大きな望遠鏡+双眼装置でも同じような像は見えるのかもしれません。   しかし温度順応時間が短く、シーングにも強く、EMSアポ双眼のほうが断然 お手軽のようが気がします。
   リバウンドを考えながら移動させなければいけませんが、HF経緯台でも この倍率なら追尾はそれなりにできます。
   スケッチや写真撮影を行わないのなら、惑星用にアポEMS双眼お勧めです。   (でもこれで追尾できるようになると、さらにいいんですけどね。)

 2-3:地上の風景

   ここもアポ双眼が得意なところです。像は一言でいうと「完璧」です。   ものすごくコントラストが高く、明るいです。100mほど先の木を見ていたの ですが、枝の前後関係や青空との対比がものすごくよく見えました。

3:その他

   鏡筒はいろいろ迷ったのですが、自分としてはいいものを選べたと 思います。
   集光力は大型アクロに負け、高倍率の像は長焦点アポやフローライトに 負ける鏡筒ですが、この鏡筒はかなり高いレベルでそれらを両立していると 思います。
   大きさ的にも小型と大型の間ぐらいです。海外遠征に持っていくのは無理 でしょうが、平日に30分だけ見るために外に出そうと思える大きさです。当初は中途半端になるかと思い、 小型の高倍率用と大型の低倍率用を1組ずつそろえようかとも思ったのですが、 見事にこれ1台でそれぞれの役割を果たしてくれそうです。
   究極を求めず、1台であれもこれもとやりたい人にはお勧めです。

4:終わりに
   松本さんへ。忙しい中質問や仕様変更にすべてお答えいただき、 これだけのものを作製していただきありがとうございました。

村山 義彰
Yoshiaki Murayama

Comment by Matsumoto/ 管理者のコメント;

 村山さんより、詳細、的確なリポートをいただきました。村山さんは去年の望遠鏡サミットでも お会いしましたし、他の会場等でもEMS-BINOを何度も見てくださったようで、素早く使いこなしておられる ことに納得ができます。  最初にED115でのご相談を受けた時には、正直、やや中途半端なご選択のような気もしたのですが、実際に 出来たBINOを覗いてみて、新鮮な感動を覚えました。BINOが完成すると、まず店先から地上の風景を見るのですが、 そのコントラストの高さと視野の明るさは特筆物でした。  口径115と聞きますと、1が二つ続く響きからか10cmクラスであるかのような 錯覚に陥っていたのですが、よく考えてみますと、ほぼ12cmであり、実効の集光力は恐らくアクロマートの12cmを越えて いると思われます。
  鏡筒の短さに加えて頭部の軽い鏡筒で、重心をかなり手前に持って来ることが出来、天頂と水平に向けた時の接眼部 の高さの変化が非常に少なく、快適な操作性を約束します。  オリジナルの合焦装置はSCHWARZ-SタイプのBINO用に確保しており、手作りで製作が追い付かないもので、正直使いたくなかったのですが、村山 さんの熱心さに負けました。^^;   標準の繰り出し装置でも11cmくらいの口径は確保したと思いますが、やはりフル口径を確保された村山さんの判断は正解でした。   より完璧を目指すことで、1台ごとの製作時間が延びる一方ではありますが、EMS-BINOの進化のためにはユーザーの方の激励に励まされきながら前に進むしかないと思っています。

(蛇足ですが、ED115は鏡筒径が140mm(SCHWARZ150に匹敵)もありますので、HF経緯台は幅広改造仕様が必要です。)

15cmF5-BINO

In December time has come to test my improved bino under the alpine sky at temperatures down to minus 15/20 degrees. Dear Mr Matsumoto let me tell You my summary experience: The Schwarz Bino works simply fantastic. I discovered a new night sky compared to my old 26×100 Miyauchi. Only a few examples under 6,0 mag conditions:

– The Orion nebula at 30x like in good photos with undescribable details
– The E and F components of Trapezium no problem at 90x
– The Flaming Tree Nebula with dark strunk and branches at 30x
– Open clusters M 35, M 37 and others like bee swarms at 30x
– The neighbour cluster of M 35 NGC 2158 at 60x at the beginning of resolution with averted vision
– Eps Lyr already split at 90X under good seeing conditions
– M 81 with dark lanes at 60x
– NGC 891 with central bulge easy with direct vision at 60x

Though I know the bino is a richfield instrument, I had stunning views to Saturn. Using a fringe filter I saw at 150x the planet with six moons, the Cassinidivision roundabout an equatorial stripe and a brown south polar region.

Dear Mr Matsumoto, let me finally say: Though I had to do some (in my opinion necessary) improvements, it was absolutely worth to wait for and acquire Your new Schwarz Bino. It opened me a new dimension of binoviewing. Thank You once more for Your efforts.Best regards
Klaus Zott

Comment by Matsumoto/ 管理者のコメント;

 完成したBINOの着荷直前にバイクの転倒事故で骨折され、回復を待ってのファーストライトのご報告です。    ゾットさんは光学系にウルサイ^^;方で、実視テストを要求され、その時のことは去年の雑記帳でも紹介させて いただきました。実視テストの結果は雑記帳掲載の通りですが、氏はたいそう鋭眼のようで、片方の対物が気に入らず、専門家に収差量を 測定してもらい、片方の対物を現地(ドイツ)で納得がいく物と買い換え、SYNTAの鏡筒の標準を越えたSUPER-BINOの完成にほくそ笑んでいます。   また、氏によると眼幅調整も精度不足だそうで^^;、少し改造したのだそうです。 最初からシェフの料理にドバドバと調味料を かけてくれましたが、氏の情熱と、海外からの注文のリスクを承知で注文してくれたこと、BINOがドイツまでの道中に何らかのダメージを 受けた可能性に免じて、見過ごしています。^^;
    改造の経緯もメールにありましたが、混乱を招く恐れが強いので、その箇所は掲載から除外しました。    何はともあれ、ゾットさんの情熱と執念には脱帽です。 さすがに観測リポートも具体的で、単なるこだわり屋さんではないことも分かります。

斜位テスト

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斜位については、去年の1月2日(斜位矯正)にもコメントしておりますが、  今回はそのチェック法につきましてご説明します。

原理は極めて簡単で、上のチャート(拡大表示する)を赤、緑のフィルターメガネで見れば良いのです。  フィルターメガネは、お近くの文具店でカラーセロファンを購入して、ボール紙等で作ったメガネ枠に貼り付けて ください。右眼に赤、左眼に緑を貼りますが、それぞれの補色がほぼ消えて見えるまで枚数を重ねます。   これを装用して数メートル(部屋の都合で適当で良し)離れて見て、赤いクロスが緑のリングの中心に見えていたら合格です。 赤いクロスが左にずれていたら外斜位、右にずれていたら内斜位です。一般的傾向として、強度の近視の方は外斜位が多く、遠視の方は内 斜位が多いようです。   両眼をつむって開けた瞬間にずれていれば、斜位の傾向がありますが、直ぐに中心に戻り、日常も疲労感がないのであれば、悲観することは ありません。

手作りフィルターでは完璧な検査にならないかも分かりませんが、テストの原理は理解していただけると思います。   単純に言いますと、赤いクロスが中心からずれていたら、プリズムを使用してセンターに戻してあげれば良いのですが、水平方向、特に外向きの 斜位の場合は自己補正が介入しやすいので、簡単には行きません。

他人を調べるもっと簡単で大雑把なテストは、被検者に検者の右手の人差し指の爪を見させ、検者は左手で被検者の右眼を覆い、その 手を外します。
顕著な外斜位があると検者の手で覆われた眼は勝手に楽な眼位を取るので、検者が手を外した瞬間に眼球が外からくるっと回って目標に向くのが 観察できます。
斜位には、上下、内、外の他に、回転斜位もあり、それ用のチャートがありますが、回転斜位だけはプリズムでは補正できません。

双眼望遠鏡の光軸や眼位との兼ね合いについての議論が掲示板等で時々見られますが、解答は私のHPで繰り返し ご説明している通りです。機械的な誤差よりも眼の癖の方がはるかに大きく、機械的精度剛性だけを追求するのは無意味です。   大切なのは、眼の癖を介入させないテクニックを覚え、合理的な調整装置の使用法を理解することです。その方法につきましても、 私やBINO自作経験者のHPで詳しく説明していますが、そう難しいものではありません。

また、やや完璧な光軸を逸脱した双眼望遠鏡を覗くことの影響につきましても、心配無用であることは、眼の生理を含めた総合的な 理解から断言できます。眼への影響は、常時装用する掛けメガネの方がはるかに大きいですが、視線は常にメガネレンズの光軸を外れて動き回り、 特に左右で度数差がある場合(特に遠近両用)は、常に左右の眼が異なるプリズム量を通して物を見ることになりますが、それでもメガネと して成り立っている事は周知の通りです。仮に眼に悪影響をきたすほどの光軸ずれが双眼望遠鏡にあれば、とても長時間覗き続けられるものでは ありません。

足利先生からのメール

 母校の遷喬小学校の門前には蘭学者の稲村三伯の記念碑が立っている。声が届く程の距離に三伯の生誕地が あるからだ。目立つことの少ない山陰にあって、郷土が誇れるものの一つである。 ただ、江戸時代に歴史的偉業を成し遂げた稲村三伯先生も、お会いしたこともなく、私にとっては遠い存在に過ぎない。

  自分が実際にかかわった方の中で、尊敬する人として真っ先に目に浮かぶのは、足利先生だ。  足利先生には高校時代に数学でお世話になったが、私は決して良い生徒ではなく、先生のテストで一度だけ記念すべき 「0点」を採ったことが今でも忘れられない。当時、器械体操に没頭していた自分には、テストに向かうのがどうでも良い 事のように見え、敢えて白紙で提出したのだった。 決してどなり声を揚げるような先生ではなく、テストの結果に心配して 部活をしている私を訪ねてくださり、お陰でその後はまじめに勉強した。

 先生は、象のような立派な体格ながらいつも三つ揃いの正装に身をかため、物静かで生真面目を絵に描いたようで、また当時は珍しかった縁なし メガネと懐中時計から、生徒は先生を陰で”天皇”と呼んでいた。 いつも廊下をゆったりと威厳を持って歩き、それでいて 尊大な感じはないのだった。 しかし、悪がき共が先生に付けたあだ名の真意は、そんな先生を揶揄したものだった。

 先生は店のお客さんでもあった。20年ほど前に最愛の奥さんを亡くされ、その後来店される度に、「貞淑な妻でした。 家内が逝ってから、今日で*千*百*十*日目になります。」と言っておられた。

 私がパソコンを使うようになってから1年ほど経った頃に先生にパソコンを勧めた。 当時90歳だった先生はパソコンを購入され、最初の手ほどきを、今度は私が先生にさせていただくことになった。

 現在でも鳥取市のご自宅で数学を教えておられる先生も、ダブルクリックがうまく出来ない等、最初はやや難航され、 もう少しのところでやや体調を崩され、パソコン講座を一時中断した。 さずがの先生も諦めてしまわれたのかな、と思っていた ところ、1年近く経った頃に電話をいただき、講座を再開、完了することが出来たのだった。

 足利先生は今95歳、現役時代から気高郡(奇しくも町は異なるが、蜂谷氏と同じ郡)の実家と鳥取市の家との往復を 一日も欠かさず続けておられる。子供さんは全て立派に自立しておられ、自分自身も今だに自立した生活をしておられるのだ。

  そんな先生から久しぶりにいただいたメールをご紹介する。

足利先生からのメール:

 先日はお便り有難うございました。お父様始め皆様お元気のご様子、大慶至極に存じます。 私こと20年一日の如く愚直なまでに同じ動線を描いて暮らしています。
鳥取ー**間が少し長い廊下の様な感覚になりました。
 あなたの旺盛な研究心には唯ただ頭の下がる思いです。 ご健康にて益々ご研鑚の程祈り上げます。

 思えば我が生涯において誠に有難い幾多のご厚誼を戴きました。深く感謝致し居ります 向寒の砌ご自愛の程祈り上げます。

  もったいないメールです。

余談だが、足利先生は足利尊氏のれっきとした末裔であられることを、最近知った。

ED130SS-BINO

  ED130SS-BINOの完成から3週間目に幸運にも、私の星仲間所有の38cmドブソニア ンと17.8cmEDアポ(F9)の2台と並べて見比べることができる機会を得、贅沢 な比較観望会となりました。

  大型機である2台に挟まれて、私のBINOはとてもコンパクトに見えましたが、その見 え味は決して引けをとるものではありませんでした。

  笠井トレーディングのSWV24ミリ(94度)で見る二重星団は吸い込まれるよう な感覚で、双眼であるためか94度の見かけ視界を無理なく一望できます、今までは 実は二重星団にピンクやブルーの星が多く含まれており、とてもカラフルな星の集ま りであるとは気づきませんでした。両眼でみる星はストレスなく長い時間にわたり見 つめることができるので、星の色など今までなかった発見があります。

  アイピースをケーニッヒ32ミリ(65度)に変えて、プレアデス星団を見ましたが メローぺ周辺のガス雲に簡単に気づきました、蒼い星の集まりは神話の通り 6姉妹の涙に濡れたようなイメージです、眺めながら一杯やりたいくらい綺麗でし た。

  散開星団に関して言えば、広視界をフラットにしかも高コントラストで実現するBINO の圧勝という感じです。 立体的に見えるのは大きく明るい星は近く、小さな暗い星は遠くに感じるからでしょ うか、双眼視でなければ感じることのできないイメージです。

  昇ってきたばかりの系外星雲M81&M82を38cmドブと見比べましたが、ふた つの星雲を同一視野で見ることができる倍率なら、私のBINOは38cmドブと遜色な い見え方えをしました、瞳径がBINOの方が適切だったのかもしれませんが驚きです。

  同席した私の家内の言葉を使えば「同じくらに見えるなら両目のほうが楽にみえる」 私も同感です。ただし、M82だけをクローズアップして見るなど集光力にものを言 わせるような場面では、さすがに38cmの大口径には及ばない部分もあります。

   アイピースをナグラー4.8ミリ(180倍)に交換し土星を見ました、「EDにしてよ かったな!」と覗いた星仲間から言われました、ポッカリと浮かんだ土星は印象的で す。 180倍という倍率よりは大きく見える気がします、追尾も思ったより楽でした。

  しかし17.8cmEDが300倍オーバーで見せる土星の迫力には正直、一本取られた という感じです。余談となりますが、この友人の17.8EDには、私が以前から所有し ているC11EXで何度も挑んで、惑星だけでなく、球状星団や惑星状星雲といった C11EXの本来得意とする分野でも、連戦連敗し比較するには苦手意識がありま す、ED130SS-BINOは、まだまだ倍率を上げる事ができそうです、もう少し高倍率が出 せるアイピースを用意して何とかリベンジしたいところです。

  東の空からオリオンの大星雲が昇ってきたところを、BINOで見てみると、ちょうど視 界に地上の立木と大星雲が同時に入り、何とも言えない遠近感です、「地上から星を 見ているんだ」と認識させられる、予想外の風景に得した気分でした。 オリオン座が十分に高い高度となったところで、アイピースをペンタックスのXL1 4ミリに交換し再度、大星雲を覗きました、このBINOは本当に素晴らしいです。 まさかと思いましたが、17.8cmEDよりも明るく見えます、そして38cmドブソ ニアンよりもリアルに見えます、正立であるためオリオン大星雲の怪鳥のような形を したガス雲が、地上に落下する方向でなく上空へ飛び立つ方向に見える姿が印象的で す。

   38cmドブソニアンのオーナーがBINOをさして「M42や二重星団など明るい大き な対象はドブソニアンよりも良く見える、ドブソニアンは集光力で今まで見たことの なかった星雲などを見せてくれるが、この双眼望遠鏡は見慣れた星を見たことない 程、美しく見せてくれる」そして「夏の遠征観測会では射手座周辺をゆっくり見たい ので30分くらい独占して使わせてくれ!」(本気で言ってるみたいだ...)

   最後に私の私見ですが、天体望遠鏡を使う回数でなく、覗く時間でコストパフォーマ ンスを考えるならBINOはとてもコストパフォーマンスが高いと思います。 今回の比較観望会において17.8cmEDでも38cmドブソニアンでも、ほとんどの 人が覗いても10秒程度でアイピースから目を離しましたが、BINOを覗いたときだけは誰 もが1分くらい(声をかけなければいつまでも?)は覗き続けていました。 椅子に腰掛けて、飲み物を用意して、静かな音楽でも聴きながら、いつまでも覗きた くなる、そんな望遠鏡です。

   同じ土俵では比較は難しいのだと思います、今回の比較観望会ではBINOの得意分野で の比較が多かったですし、空のコンディションもBINOに有利に働いた気もします。 それでも、大きな望遠鏡に挟まれながらのED130SS-BINOの大健闘の一夜でした。

野木孝一
Koichi Nogi

Comment by Matsumoto/ 管理者のコメント;

 野木さんはご夫妻でBINOの引き取りに来てくださいました。 野木さんはもとより、奥さんも大変素敵な方でしたが、 このBINOに愛称(Blue)まで付けてくださいました。それまでは、星見にやや傍観的だった奥さんが本当の意味で星に興味を 持ち始められたそうで、大変嬉しく、光栄に思っています。

 それにしても、最初から強豪を相手にされたのですね。私も15cmホタロンBINOを作るまでは、屋上のドームの中には、中型の赤道儀に15cmニュートンと
8cm屈折を同架していました。やがてコンパクトなコロ付きの低い架台に載せた8cmBINOを作り、本来主役であるはずの前者の周りで使用していましたが、 その8cmBINOを見るようになった途端に15cm反射は一切覗かなくなり、deep-skyは8cm-BINO、惑星と二重星は長焦点8cmアクロマートという時期がしばらく 続いたのでした。 ということから、敢えて不適切な比較をしますと、BINOには総合的に見て、確かに倍の口径の単体鏡筒を凌ぐ魅力があるように思います。

 それと、野木さんが指摘されたように、BINOは生体である私たちの能力をそのまま増幅してくれることが、その魅力の大きな部分であろうと思います。  巨大望遠鏡による電子化された画像がwebを通して簡単に入手でき、ジャンボジェットで世界中のどこにでも運んでくれる現代ですが、それは古代から私たちが夢に描いた ”空を翔ぶ”というイメージとはほど遠いのでは ないでしょうか。”全身に風を受けて羽ばたいて飛ぶ”、BINOは私たちのそういう夢をかなえてくれます。

 野木さん、ストレートで分かりやすく、すがすがしいリポートをありがとうございました。どうぞこれからもご夫婦で 美しい星空に浸ってください。