Memory of my Dad (6) (父の想い出(6))

This photo was taken on New Year’s day when my father was 19 years old. The right guy is his friend of the same age.
My father was dominated by his strict father (my grand-pa) through his childhood and youth.
Father was one of the typical victim of the feudalistic family system of before the war.
Father, who was the sixth son, was treated just as a foot man only to serve the Banu.

松本家の確かな系図は、池田光仲候が岡山から鳥取に国替えになった時に、同行した 御用商人の松本治郎平に始まるようです。 町人でしたが、名字帯刀を許されていました。 口頭の伝承では、先祖は角倉了以の12人の子の誰かということですが、これは残念ながら証拠がありません。 ただ、先祖が了以を尊敬していたことだけは確かのようです。(余談ですが、角倉と鴻池が京都で財宝比べをすることになり、鴻池が当時の至極の財宝を台車に満載して京の町を練り歩いたのに対し、角倉は自分の12人の子供を車に乗せて回った・・という話も伝わっています。^^;)

以下、池田光仲候について、Wikipediaからの勝手な抜粋です。
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寛永9年(1632年)父・忠雄が死去し、わずか3歳で家督を継ぐこととなった。幼少のため山陽道の要所岡山を治め難いとされたが、徳川家康の曾孫ということもあり改易とはならず、光仲は因幡・伯耆を有する鳥取藩32万石に、従兄で鳥取藩主となっていた池田光政が岡山藩31万5,000石へ国替えとなった。この際に、叔父の池田輝澄(播磨国山崎藩主)、輝興(播磨国赤穂藩主)、さらに光政が後見人として充てられた。幼少のために江戸藩邸に在住し、領国経営は荒尾氏を筆頭とする家老を中心とした側近に委ねられた。光仲が領国に初入国したのは慶安元年(1648年)、藩主となって16年を経てからである。
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永代供養になっている松本家の墓が高野山にもありますが、上の記述の荒尾家老の 墓石と並んでいます。

以上は、何も先祖の自慢ではなく、父が厳格に封建的な家族制度の元で育ったということをお知らせしたいために引用したものです。  ”家”を存続することが、何よりも優先され、それを護持するためには、個人の命や幸せは 取るに足らないものとされていました。 だから、家の都合により、子供は養子として物のように た易くやり取りされていました。 父は養子には出されませんでしたが、独立を求めた父に対し、 祖父も長兄も冷たく、反対を押し切って家を出た父には何の援助も与えられせんでした。

長兄よりも人当たりが良く有能だった父は、まさに長兄が頼朝なら、義経のような存在だったに違いありません。 父の長兄は「どうせすぐにケツを割って戻って来るだろう・・・」と、敢えて 冷たくしたのでしょうが、明日の食べ物にも困った父の困窮、家族を飢えさせることを怖れた戦慄は半端ではありませんでした。

四十九日は、仏教では仏になるか地獄に行くかの審判が下される日だそうですが、それが 近付いています。 父が長兄や祖父を許し、和解していれば、多分仏になるのだろうし、 そうでなければ地獄行きかも知れません。^^; 「地獄にでもどこでも行ってやろうじゃないか・・・」というのが生前の父のスタンスでしたが、49日の修行でどう変わったかが問題です。^^;