BORG45ED-BINO

2003年の双眼鏡・望遠鏡サミットにて決断致しました双眼望遠鏡です。 EMSセットを頼みまして半年が経とうとしておりましが、他の場所にてお願いして おりました鏡筒バンドの作製が大幅に遅れたため、いまだにツインになっており ませんでした。その間、EMSが手元に在りながら使えないことに歯がゆく思い、折 角だから何かおもしろいことをしようと即席で生まれたのがBORG45ED-Twinです。

即席の所以は実は片方の鏡筒は友人のもので2004石川町SLFの時の写真です。組み 合わせは鏡筒部に2インチホルダーSⅡ[7504]を使用することにより合焦します。 ただし2インチアイピースは合焦しません。他、着脱の簡易・迅速性を考慮して 架台部と鏡筒部の取り付けにはベルボンのクイックシュー(中判用)を介して使用 しております。

見え味に関してですが残念ながら星の方は見ておりません。風景を見た感じでは、 小さいながらも定評ある鏡筒だけあって、非常に抜けの良い綺麗な見え味を示して くれました。倍率を上げても色収差等は感じられません。実はこれは正立プリズム だとわずかに色収差が出たりしますが、ミラーを使っているEMSならではの「技」 と言えると思います。

以上、ショートレポートになってしまいましたが、現在作製中の双眼望遠鏡にて 再レポートを致します。この高いポテンシャルを秘めたEMSを使える日を今か今か と楽しみにしております。
OKADA

Comment by Matsumoto/ 管理者のコメント;

 可愛いTwinですね。
 本命鏡筒用の鏡筒バンドが間に合わなかった由、残念でした。  当方に気を使ってくださったのでしょうか、他に依頼されたのは。 私も責任を感じます。^^;

  確かに、市販鏡筒のバンドは、双眼使用など全く眼中になく、ヒンジ部等の干渉で 私も随分と泣かされて来ました。しかし、これも発想次第で、固定観念を捨てると、 結構簡単な解決法が見つかるものです。私が察するに、多分その下請け屋さん?は、 頭を捻りながら時間が過ぎて行ったのではないでしょうか。

  私がお勧めする解決法の一つは、バンドのヒンジ側を通常と反対の、鏡筒外側に 向け、ローレット付の締めボルト側が内側で対向するように持って来ることです。「これだと尚更出っ張って 干渉する!」ですか? ^^;・・・それが固定観念なんです。^^

  ヒンジ部を薄くするには、大手術が必要ですが、締め側ですと、ローレットボルトを 細めのキャップ(六角穴)ボルトに変更すれば、締め部の出っ張りの大半を切除することが 出来るのです。(元のボルト位置より内側にネジ穴加工を施す)その部分の構造により、ボルトはM5程度を1本か、M4を2本かを判断します。

(BORG鏡筒が素材であれば、鏡筒径が細いので、鏡筒バンド同士の干渉の心配はありません。)

  ともかく、バンドが早く完成し、本命の鏡筒が搭載できますことを祈っております。

MEADE178ED-BINO

百武彗星がきっかけで久しぶりに天文に復活し、偶然入手した2本の鏡筒を天頂ミラーにより双眼化して 1997年から使っていました。当時は架台を赤道儀にしておりました関係でBATTやPCまで含めると総重量は 200kgくらいあったと思います。 鏡筒回転機構のせいで極軸から距離があり、結果ウエイト軸にありったけのオモリをぶら下げている ことも災いしていました。それでも若かったせいか、ハァハァ言いながらもあまり気にせず使い続け ていました。(写真に写っている車にピラー脚以外は積みっぱなし)

 このところ体力の衰えというか、慢性的な運動不足とモチベーションの低下で稼働率が 下降線をたどり、昨年はとうとう2回となりました。「このままではイカン」と重い腰を上げた次第です。 自動導入はとりあえず諦め、軽量化のために経緯台とし、経緯台にはやっぱ専用のEMSだよなぁと、 4月末に松本さんにコンタクトをとりました。

 比較的軽くて丈夫な架台ということで構想当初からLB150用の経緯台と決めていました。CAD上で確認すると、 重心位置の関係で架台と鏡筒バンドの干渉が発生し、鏡筒ピッチが272mmとなってしまうことが分かり焦りま した。松本さんにまた怒られるかなぁ。。。と心配しながらも発注してしまいました。 (実は仮に架台側の制約を廃してもレンズセル径が10インチありますので、大して鏡筒ピッチを縮める ことは出来ないのですが) 今回の改造はほとんど市販品を用いており、とても簡単な工作で済みましたのでEMS到着の週末には 組み上げてテストすることができました。総重量も計算値で約100kgとなり、気合いを入れなくても稼働 できそうです。

EMS制作依頼時の仕様表

鏡筒側仕様
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・鏡筒ピッチ 272mm(固定)
・接続部 M89P1メス(ボーグHV1)、回転機構有り
・バックフォーカス 243-274mm
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EMS仕様
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・仕様 EMS-XL 大型第1ミラー仕様
・目巾調整 Pentax67接写ヘリコイド
・接眼フォーカス 接眼部ラック&ピニオン(短め)
・EMS(鋳造部) 白色塗装
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EMSは鏡筒と同じ白色、目幅調整は実物を比較して決めた67用ヘリコイドと少しわがままです。 (汗

良かった点
・接眼部フォーカーサー
 最も気に入ったのがこの機構です。フォーカスを手元(目元)で操作できることがこんなに便利だとは思い ませんでした。それから、あとで気付いたのですが、フォーカス調整による重心移動がほぼ皆無となります ので、アイピースの重量だけ統一してやれば観望時にバラストで調整を行う必要がありません。指一本でスル スルと鏡筒が向きを変えますので、操作ハンドルも廃しました。とにかく非常に快適です。

・鏡筒接続部の大口径化
 EMSでは鏡筒からのシフト量と2インチアイピースの重量によって常時かなり大きな回転モーメントが発生していますので、これを支えるには径で対応するのが一番だと思います。大口径化したことで観望中にEMSが回ってしまうこともなくなりました。 加えて脱着部を既製品(BORG)としたことで、脱着によってEMS自体に傷が付く心配がないので力いっぱい ネジを締めて固定することも出来ます。

・第一ミラーの大型化
 見た目のバランスもそうですが、2インチ長焦点アイピースを用いた場合でも周辺減光がほとんど感じ られない快適な視野を提供してくれます。

気になった点
・バヨネット脱着部のガタ
 実は大したことではなく、EMS上部を持って鏡筒を振り回すようなことをしなければいいだけのことです。

今後の課題
 改造後3回ほど観望に持ち出しました。架台により不動点が高くなってしまいましたので、ピラー脚を少し 短縮することを考えています。それから恒星追尾が手動なのでやはり高倍率での長時間観望はストレスが たまります。当初の軽量化の目的とは違ってきますが、将来的に電動化しようと妄想中です。水平軸はハーモ ニックギヤを使うことで機構全体を架台に内蔵できるのですが、垂直軸はクラッチを搭載するスペースが 無く面倒そうです。

最後に
 いろいろ注文をつけて松本さんには大変ご迷惑をおかけしてしまいました。 それでも、結果とてもいいものが出来上がって満足しています。 また機会がありましたらよろしくお願いします。 どうもありがとうございました。ございました。

神奈川のDamyanさん

Comment by Matsumoto/ 管理者のコメント;

DamyanさんのEMS-XL(6X7ヘリコイド仕様)は2004年の8月に紹介させていただいて いましたが、ついに完成したBINOの姿を見せてくださいました。Damyanさん、お見事です!   極めてシンプルで美しいスタイルです。 Fujinonの大型双眼鏡の架台を利用されたのでしょうか。  鏡筒間隔を広めに設定された理由も納得しました。

 ピラーを短縮されるご予定とのこと、私も賛成です。 一般に、ピラーや脚を必要以上に高めに設定される方が 多いように見受けます。 なるべく水平近くまで、踏み継ぎなしで覗ける高さに設定されることをお勧めします。   天頂付近は、座布団(それに近い低い椅子)を敷いてあぐらをかいて見るスタイルでも良いのです。

  規格外品の製作には結構時間と集中力を消耗するもので、標準規格品の順番待ちの方のことを思うと どうしても気持ちが焦ってしまい、Damyanさんには無意識に結構小言を申し上げていたのかも分かりません。  私こそ気を付けないといけませんね。^^;

  今度は観望リポートをお願いします。 (6X7ヘリコイドのバヨネット(雌)はラチェットの位置が調整できますので、ガタも治ります。ただ精密な 作業なので、注意して行ってください。ただ、発送時の状態がキープされていれば、問題ないレベルだと思いますよ。)      


BORG150ED-BINO

 松本様、山内様こんばんは、村井です。@’04.10.18 購入までの経緯と、思いと、タイミング、、いろいろありすぎてうまくお伝えできませんが、 とにかくサミットにて、のっけから最高の一晩でした、有難うございました。  長文、雑文失礼につき、暇なときにでも読んでくださいませ。。。^。^/

【ボーグΦ150ED双眼、製作有難うございました】   ほんっとうに最高です、感謝いっぱい、大感激\^o^/!!  サミット間に合った上に、満天の星空のもと、ファーストライト成功!!   こんなことってあるのでしょうか、幸せ感じています。

  お世話になりました筆頭;松本様、製作と我侭聞いて下さりありがとうございました、  製作運搬他、親身にアドヴァイスいただきました山内様、ありがとうございます。   山内様の初期後押し無ければ、やはり気後れのままだったかもしれません。

 山内様からご紹介で当日にお世話になりました、服部様、岡本様、、  暖かい皆様のお力添えで、無事、ファーストライト成功の運びとなりました。  まずは最初にこのことをお伝えしたいと思います。   ありがとうございました、そして、これからもご指導よろしくお願い申し上げます。

【サミットにて】   そもそも松本様には今年2月に初めてTELして以来、お世話になりっぱなし。  当方素人ゆえに、惑星、星雲あれもこれも見たい、と多分訳もわからぬご迷惑な相談に、  愛想尽かさずいろいろお付き合いいただきました。    (見捨てないで下さったのが不思議なくらい、、、)

 なおかつ、作成日程ご無理お願いして10/16 15:30、  スターフォレスト御園、双眼鏡望遠鏡サミット本番の受付開始直後に、  宅配にて現品現地で受け取り成功となりました。  (ここでは詳細述べませんが、ある事情=仙人殿HP参照で、運搬編にご登場いただく予定の山内様、筋金入り潜水艦乗りの山内様 に自称15年アマチュアダイバーの村井は、強い興味を抱くのでした)

  少し心配しました。私自身が自分の機材持つのが35年ぶり、ましてBINOとなると、  全く見たこともない初物難物で、はたして夜までに観望できる状態になるのか、、、?。   もちろん私ひとりでは無理なわけでして、仙人山内様口利きバトンタッチの、  服部様→岡本様ご指導で組み立て、調整ご教授いただき、素人ゼロ号→1号として、デビューする ことができました。

 p.s 現地に向かう途中のカーショップでバッテリーと配線を購入し、到着後に配線を仕上げ、    山内様ご紹介の横田様よりあらかじめ購入の露避けヒータと組み合わせました。    バッテリ充電状態も間に合わせにもかかわらず明け方4:00ころまでは作動していました。    目的のひとつでしたので、濡れずに機材回収できたのも嬉しいです。     (もっとも、ある程度風もあって、ヒーターの必要もなかったようですが。)   

【ファーストライト インプレッション】  すみません、素人ゆえまっとうな言及はご容赦お願い致します。
   @アイピースは(トラ殿の強いお勧めもあって)N4-22mm
   これも、先週届いたばかり。
    ちなみに服部様にからかわれ?ました『これ買ったら、もう上がりだよ!』

  ①.練習;山の稜線の鉄塔@開梱組み立て終了、16:30~
     松本様HPの調整法、服部様からのバトンタッチ岡本様ご指導で鉄塔を相手に四苦八苦、 本当に調整できているのか定かではありませんが、手前の山の木々とのすさまじい限りの立体感に しばし唖然、、、というか、断然気に入った次第です。天体望遠鏡って、定義は何なのでしょうか、、、。 帰宅後、じっくり調整取り組みます。それにしても、眼幅調整スライドブッシュのなんとスムースな ことか、、、。ここまでスムースだとちょっと調整狂うと×になる?、、、なんて余計な考えが頭 をよぎります。

  ②.星空;天の川の存在を久しぶりに意識しました@18:00~23:00驚いたのは、 かろうじて自分で導入できた2重星団とアンドロメダ。これはもう写真のレベルに近い!!眼視ではどうやっ ても光量蓄積のできる写真と比較しようもないのでしょうが、つぶつぶの星が不思議な立体感、 皆様のHPなどでお聞きしていた通りの迫力を感じました。 M31も、しっかりした腕の広がりと伴星雲の星雲らしさをもって、素人なりに納得のいくひと時となり ました。

  ③.あれ?夜半過ぎころからか見にくる方のなかに調整の狂いを指摘される方が数人、、、。      私にはなんとも、、、?でしたが、気がついてみると左右EMSの間隔が斜め、、。EMS固定ね じ2箇所は締まっていてOK、暗闇では気付きませんでしたが、明けてから鏡筒本体側ねじが緩んでいるの に気が付きました。締め付け後、ご指摘なくなりましたので、多分大丈夫なのだと思います。

  ④.夜半過ぎ、オリオン。上記の状態にもめげず、というか、私の目幅がN4-22口径いっぱい 近くまで狭くて、固定OKの左に対して、緩みのある右が接触して、結果EMSの倒れが無かったのかもしれ ません。上がってきたオリオン大星雲を3:00すぎまで堪能しました。本当にすごい光景です、 鷲のくちばしも羽の根元の模様も、羽の先も、言い古された表現=鷲そのものの姿で、魅了されてし まいました。
  これも、不思議と星やガス部分の立体感をはっきりと感じるのです。眼の訓練無しで、 なおかつ写真見て妄想のみ育ててしまった私の目にすら、何の言い訳の必要もないほどの圧倒的説得性 で迫ってきます。(明日持って帰って、かみさん&子供に見せるのが楽しみです)
 木々の陰から上ってくる瞬間の立体感に始まり、天頂に近付いてからは、イスに座っての楽チンさ含め、 予想外の冷え込みに震えながらも臨場感楽しむこと4:00すぎまで。。(参加前はせいぜい2:00すぎ に惑星見て寝るつもりでした)

 ⑤.同夜半過ぎ;土星
      気流が悪いのは感じていましたが、ものすごく悪かったようです。      雲こそまったくない晴天なるも、ベテランの皆様ですら、こんなに悪いのは、       本当に初めて!!と言われるくらいの状態だったようです。       確かに土星見ても、環こそ認識できるものの、感動無し。      ある人いわく、空に卵があると、、、。      そういえば星像も点ではないような。、、、。←^^;わかってませんね、、、。       皆様に慰められました、せっかくのアポなのに残念だね、、、、。      そう言われて、ますます、当所目標の惑星、月見る日が楽しみです。

  ⑥.すみません、機材紹介
    口下手ゆえ、お二人のこと、うまくお伝えできませんでした、、^^;

 以上、またまた、うまいことお伝えできないのが心残りですが、寝不足解消にいたっていないので、 申し訳ございませんが、これにて失礼致します。 本当に、有難うございました。

村井 聡太
Sota Murai

Comment by Mtsumoto/ 管理者のコメント;

 村井さんより、ご帰宅直後でお疲れにもかかわらず、さっそくに詳細なメールをいただき、 当コーナーへの掲載も快諾してくださいました。
 BORG150EDは、BINOの素材鏡筒としては鏡筒最大径(フード、セル部径)が小さく、軽量でもあり、好適な鏡筒なので すが、やはりこの口径でEDとなりますと、相対的にはリーズナブルな価格設定とは言え、やはりハードルは結構高い ようで、今回の村井さんのBINOで初めて採用させていただきました。
  フード径、鏡筒径共、SCHWARZ150Sとほぼ等しいので、同規格の台座が利用でき、好都合でした。 ただし、F6.7と、焦点距離がF5の(SCHWARZ)より25cmほど長いことで重心位置の設定に少し勝手が異なり(鏡筒を 手前に引く必要あり)、操作ハンドルと接眼部の干渉等があって、どたんばで慌てました。

  サミット会場に直接発送という綱渡りをしてしまいましたが、BINOは無事届き、好天に恵まれ、 会場では双眼エキスパートの方々の親切なアシストもあり、村井さんはBORG150ED-BINOを立派に組み上げてくださり、 感激のファーストライトを体験されました。 これは製作者としてもこの上ない幸せです。
  このBORG150ED-BINOが村井さんの天体観測の友として、末永くお役に立てることを願っています。
 そして、また後続のリポートをいただけましたら幸いです。
                  ありがとうございました。    

懸賞ゲット

広告の掲載に応じていた、地元の進学高校の学校祭のプログラムを月初めに受け取った。

”メガネのマツモト”が掲載してあるのを確認した後、各社の広告を辿ってみたところ、一番最後に某学習塾の 広告があり、懸賞問題が掲載されていた。
2変数関数の最大値を問う問題で、「高校の範囲を超えているのでは?」 と思いながら挑戦したみたところ、確かに、高校のレベルで解ける。 年齢制限もなさそうなので、応募してみたところ、 3人の正解者の一人に認定された。

懸賞はわずか千円分の図書券だったが、原始時代レベルから独学で積み上げて来た 私にとっては金額以上の意義があり、今日受け渡し場所で懸賞をいただいて来た。

 

鳥取ルーテル幼稚園創立50周年

今日は表題の幼稚園の創立50周年の式典(午前中)と祝賀会(午後)に出席するため店を閉じた。   この園には、奇しくも私と娘の親子2世代で現園長の三谷先生のお世話になった。記念すべきこの式典に 招かれたのだから、臨時休業もなんのそのだ。

この幼稚園は、昭和29年に鳥取福音ルーテル教会会堂が建築された時、地域の要望を 受けた宣教師コーレ・ビュー師が、会堂を用いて「鳥取ルーテル園」を開設したのに始まる。 開設当時は日本は 戦後の復興期で貧しく、さらに鳥取大火で鳥取市内は壊滅的な被害を被っており、ノルウェーの教会からの 暖かい支援に支えられて幼稚園は今日に至っている。

式典では、Christianで Gospel Singer の森祐理さん のコンサート、同じく祝賀会でもミニコンサートが開かれ、信仰に裏付けられた美しい歌声と 霊的なお話に惹き込まれた。 特に祝賀会で歌われたAmazing Graceでは 頬をつたうものを抑えられなかった。

最後に50周年記念誌に掲載していただいた拙文をご紹介する。もろびとこぞりて

「モーロビト コゾリテー シュワーキマーセリー ♪・・・・ 」

当時は意味も分からず歌っていた。 多分、先生の説明を聞いていたはずなのだが、その歌詞を 「諸人挙りて、主は来ませり。」と理解するまで長い年月を要した。

末っ子の長男だった私にとって、幼稚園は最初の試練だった。 我が強く先生を独占したいのだが喧嘩は 強くなく、絵だけは上手だったようだが、総じて晩稲で、目立たず大人しくしていたと思う。胸をときめかせた 三谷先生の紙芝居の他、葛藤に悶絶していたことも鮮明に覚えている。

当時は現在のような立派な園舎はなく、礼拝堂が園舎を兼ねていた。お昼寝の時間になると、狭い屋根裏部 屋のような所に上がっていたが、すぐに寝付く園友の傍ら、自分はなかなか寝付けなかった。多分そこは教会の 十字架の尖塔部の中だったのではないだろうか。

中庭も含め、結構ワイルドな遊びも許されていたように記憶する。うろ覚えだが礼拝堂内の片隅に椅子が 大量に積み上げられたような所があり、トンネル状の抜け穴で園友たちが入って遊ぶ中、狭い所が怖い私は 入るのが厭だった。園庭には木登りに好都合な大きな木があったが、私は高い所も怖かった。

気が付くと、一人娘がまたお世話になっていた。三谷先生に親子二世代がお世話になった次第だ。時に 娘も同じ葛藤を経験する様子を見ながら、親も学ばせていただいた気がする。

”もろびとこぞりて”の例えではないが、幼稚園とは、種類の分からない種に水を撒くようなものか なと思った。先生はずっと後の発芽を見届けることなく園児を送り出さないといけない。二世代目の入園 で初めて、親となった園児がどんな芽を出し、どんな木に成長したのかを見ていただけるのかも知れない。 いや、親として子供を園に送り出すことで、真の意味での幼稚園のレッスンが完結するのだろう。

15cmF5-BINO in Australia

Milky Way by Mr.Okada
SHWARZ150S-BINO
C.Neat by Mr.Okada

 今晩は、ID21番のトラです。今日、オーストラリアから帰国いたしまし た。明日からアメリカ出張なので、とりいそぎレポートいたします。

 今回は、東京のコプティック星座館が企画したツアーに参加し、2004年5月15日から 23日までの日程で、2つの彗星と南天の観望に行ってきました。観望場所は、ニュー サウスウェールズ州クーナバラブランという、サイディングスプリング天文台のある 村の飛行場と競馬場です。飛行場に設置したシュワルツBino150Sの写真を添付いたしま す。

 機材は、シュワルツBino150S、ニンジャ320、ニコン18×70IF、ニコン7×50SPで、これ らを仲間と分担して持ち込みました。写真用の機材は諦めました。

 彗星については、地平線にあるユーカリの枝葉の真っ黒なシルエットの間から、リニ ア彗星がその筋模様の尾や青緑色のコマを見え隠れさせながら没していく様子を見る ことができました。立体感のある地上風景と彗星とを、同時に自然な美しさで観望で きたのは、空の透明度と15cm双眼の組み合わせによる幸運でしょう。

 天の川は、非常に明るくて星の密集度も高いため、どの部分がカタログ番号を付され ている星雲星団で、どの部分がそうでないのか区別するのが、時折困難でした。濃い 銀河の中に濃淡・大小さまざまな暗黒星雲が浮かんでいる様子を広視野の双眼で見る と、(星空を背景に星雲星団が浮かび上がってくるという通常の見え方とは異な り、)深い凹凸のある影を伴った面のように見えました。

 もちろん、個別の星雲星団についても、極薄緑から淡い小豆色のグラデーションと暗 黒の襞のあるエータカリーナ星雲、不気味な泡状の暗黒部分があるタランチュラ星 雲、中心まで完全に分離している(シンチレーションが感じられない)満月サイズの オメガ球状星団、ディスク状の中心を持つNGC104球状星団、圧倒的星数のNGC3532 散開星団、内外に多数の小さな散開星団が散らばる大マゼラン銀河、暗黒帯内部の濃 淡までみえるケンタウルスA電波銀河、フィルターなしで無数の微光星を背景に浮か ぶ網状星雲、UHCフィルターで淡い複雑なフィラメント構造を見せるガム星雲、 等々、写真のイメージをはるかに超える生の姿を擬似立体感をもって楽しむことがで きました(とはいっても、一番楽しめたのは、180度に広がる巨大エッジオン銀河、 つまり天頂にバルジのある天の川の肉眼視でしたが)。

 幾晩にもわたって徹夜で観望をするので眼の疲労が心配でしたが、アイリリーフの長 いアイピースを使っての双眼観望、毎日のビタミン剤摂取、昼間の爆睡により、ある 程度まで眼の疲労を軽減することができました。

 普段、見慣れない南天では、エンコーダによる導入・対象確認が大変役立ちました。 知らない土地でこそ、カーナビも活躍しますよね。

 ところで、海外への運搬方法については、今年のお正月から松本様にご相談にのって 頂きながら検討を開始しました。国内の移動観望で何度も試行錯誤を行った末、今回 実施した主な工夫は以下の通りです。

(1)鏡筒のラッパ部分と合焦装置との間で鏡筒を分解し(ここが最も光軸が狂うリ スクが少ない)、また、フードを巻きつけ式のものに交換して、鏡筒長を短縮する。

(2)合焦微動ハンドルの側面の抜け止めネジを緩め、微動・粗動軸を合焦装置から 分離し、ショックを受けた場合の微動・粗動軸の狂いを防止する。

(3)三脚と三脚架台をぎりぎり使用に耐える程度の小型軽量のものに交換する。

(4)鏡筒を固定するプレートの耳軸を、HF経緯台のフォークの耳軸受けで締め付 けた上で梱包し、耳軸方向へのショックを受けた場合のプレート耳軸とフォークの両 方への損傷リスクを軽減する。

(5)全てのネジの上にテープを貼りつけ、振動によるネジの緩みや紛失を防止する と共に、予備のネジと軽量な工具一式を持って行く。

  今回は、松本式双眼望遠鏡をオーストラリアに持ち込めたおかげで、彗星や南天を より美しくリラックスして楽しむことができました。このような機材を製作していた だきましたこと、心からお礼申し上げます。

「トラ」
Comment by Matsumoto/ 管理者のコメント;

「トラ」さんより、オーストラリア遠征のリポートをいただきました。
  写真から、現地の広大さを感じますが、実際に体験すれば、こんなものではないのでしょう。

  濃い銀河の中の暗黒星雲等の描写を読まれ、居ても立ってもいられなくなった読者の方も多いのでは、と想像します。
  私も「180度に広がる巨大エッジオン銀河」と言う体験をしてみたい!

  オーストラリアまでの150S-BINOの運搬にも周到な準備をされました。 最初から搬入を諦める方も多いと思いますが、 見事な実例を作ってくださいました。

親思う心にまさる親心

毎日地方紙の「おくやみ欄」を見るのは母の仕事だ。 小さな個人商店であっても、数千名の顧客リストの中には、数日おきに 該当者(もしくは家族)が見つかってしまうのだ。

「大変、Kさんの息子さんが亡くなってる!」

Kさん(男性78歳)は30年以上前、累進焦点レンズが市場に出始めて間もない頃の当店で第一号の累進レンズ のお客さんであり、以後ずっとひいきにしていただき、1週間前にもレンズの更新をさせていただいたばかりだった。

温厚で紳士的な人格も印象深く、また役所を定年後に始められた仏像等の木刻の出来映えは、アマの域をはるかに超えて心を動かされるものがあり、 その方より機会あるごとに頂いた作品は我が家の家宝になっている。

ただ、全てのお客さんの慶弔にお付き合いするのは、現実的に不可能であり、弔問はその時の微妙な判断に従うことになり、 お世話になっていながら失礼してしまうこともあるので、その点、この場でお断りをしておかないといけない。

ただ、今回のKさんの場合は、逆縁であることを含めて、何としても弔問に伺わないと気が済まないケースだった。

付き合いの長さから言って、両親が行くのが良いと思い、また道路地図によると、そう分かりにくい場所でもなさそうだったので、 敢えて両親に行かせることにした。

1時間弱で帰って来た母の顔が赤く、泣いた跡が伺えた。逆縁なので、とても涙無しには帰れないだろう。当然目的を果たして 帰って来たと思い、「どうだった?」と私が尋ねると、「行かれんかっただが。もうお父さんはダメだわ。」と母は泣きそうな顔をしている。   車を置いてから少し遅れて店に帰って来た父も、「わしゃあ、もうダメだ。」としょげている。

父母は「お前が行ってくれ。」と言ったが、私は敢えて父を助手席に乗せて行くことにした。役に立たなかった音声ナビゲーターの母は留守番だ。
道中、目印をなるべく父に確認させるようにして走った。父はほぼ理解しているようだが、建物や道路が新しくなっていて 混乱しているようだった。15分ほどで先方宅の近所まで来た。地図を見た段階で車の横付けは無理のようだったので、大きな道路の 脇に駐車し、徒歩で迷路っぽい住宅地の中を探したが、ほどなくKさん宅は見つかった。

万が一間違いだったら大変だと心配したが、玄関先に葬儀用の花が飾ってあったので良く分かった。    玄関の戸を開けると、大勢の親族の方が焼香の間で食事をしておられる様子が伺え、対応に出た女性に 「おじいちゃん」を呼んでいただいた。

Kさんは大変喜んでくださり、大勢の親族の方で満杯であるにもかかわらず、そこで焼香をさせていただくと、ぜひ 作品を見て欲しいとのことで、父と私はKさんに従って奥の部屋に案内された。   その部屋の床の間にはいずれ劣らぬ木刻の作品がびっしりと並んでいた。大体50cm程度以下の大きさの像だが、 恵比寿さん、弥勒菩薩、仁王像、観音像等、どれも緻密な彫りで、全体のバランスもすこぶる良かった。特に観音像の 衣のひだが、とても木という堅さを持った素材から成るとは信じ難い柔らかさと優美さを見せていて、舌を巻いた。

Kさんは、作品の解説をするばかりで、いつまで経っても亡くなられた息子さんの話をされなかった。 敢えてお尋ねすると、やはり癌だった。 20分ほどお話をして、私たちは失礼した。

Kさんは外に出て見送ってくださった。細い路地の曲がり角まで来た時、 振り返ったら、まるで戦場に息子を送り出す老母のように、まだ家の前に立って見送っておられ、私たちの帰り道の方向を腕で示してくださっていた。 立派な体躯のKさんだが、遠かったので、 木彫りの仏像くらいに小さく見えた。
小さくなるKさんの姿に反比して、最後まで涙を見せなかったKさんの哀しみのオーラが、この時一挙に吹き出した のを背中に感じた。

子供さんが目指す高校に合格し、喜んでいた矢先に様態が急変、老親と妻子を残して逝か れた息子さんの無念もその波に混ざっていた。

突然、「親思う心にまさる親心 今日のおとずれ何と聞くらむ」 という、吉田松陰が処刑される前に詠んだ句が 聞こえて来て、目が霞んだ。

グリーン・フィールズの幻想曲(1)

  先日、若いご夫婦がEMS-BINOの見学に見えた。  (後でご主人と私との年齢差は十程度だったと知るが、お会いした時の印象はそうだった。)

  かねてより私の双眼望遠鏡に興味を持たれ、佐治アストロパークへの道すがらに立ち寄ってくだ さったのだ。さっそく展示していた口径10cmの双眼望遠鏡を店先に持ち出し、付近の風景を見ていただいた。

  普段愛用しておられる市販の双眼鏡よりも、さらに強調された松本式双眼望遠鏡の立体感と臨場感に、 奥さん共々たいそう感激してくださり、調子に乗った私はその後、屋上のドームの15cm双眼望遠鏡もご案内していた。

 翌日、帰宅されたご夫妻より丁寧なお礼のメールが届いた。 署名の下のホームページのリンクを辿らせていただくと、”Bar April Moon”の看板に促され、 ためらわず入店。 店内は余計な物が置いてなく、むしろやや閑散としていた。しかし、そこ にいると妙に落ち着き、出迎えてくれたエッセイや絵手紙に、忘れかけた物を思い出させられたよう な感じがした。

  さらにそこからリンクしているウェブマガジンに掲載された他のエッセイも読ませていただき、 宮脇さんの感性と文才に非凡なものを確信し、さっそく”宮脇昭好”さんの実名をwebで検索してみた。 すると、いきなり「グリーン・フィールズの幻想曲」という空想小説に至った。 確認したところ、 やはり著者はご本人と分かり、本書を送っていただく。

  小説は、主人公の青年が十年前に自殺した”1時7分の蛙の女の子”のルーツを探す経緯を空想的に 描いている。 コスモス文学賞受賞作だけあって、構成や表現に唸らされ通しだった。

 内容について詳しくコメントさせていただくつもりだったが、二回目を読みながら、自分には軽々しい コメントはまだ出来ないと思った。ただ、早くご紹介したいので、取りあえず簡単にご紹介し、もっとじっく り読んでから、後日改めて感想文の続編を掲載させていただくことにする。

  ただ、”蛙の女の子”は人間の女の子だ。 彼女は主人公と同じ、大学前の安アパートの隣の部屋に 住んでいた。 主人公は、父の自殺のために大学を退学して郷里に帰る前夜の彼女と初めて口を利く。 その夜、彼女は何もしないことを条件に主人公の部屋に泊まる。十年後に彼女の足跡を辿る旅の途中で立 ち寄る”象牙の塔天文台”は、いかにも星を愛する宮脇さんらしい設定で、天文台スタッフも奇妙に魅力的だ。

  後は本を読んでのお楽しみ。ラブ・ロマンスではない。私のように夢とイマジネーションを失いかけた 人にはお勧めの一冊だ。「日本図書館協会選定図書」にも登録されているので、 大きな図書館には蔵書として備えてあるはず。

  この本のストーリーとは関係ないが、そう言えば、私も専門学校卒業の日に、気になっていた級友の 女の子に、口から飛び出そうとする心臓を呑み込みながら初めて声をかけたことがあった。 (小説では蛙の女の子が声をかけた) 学校前の喫茶店で長い手紙を彼女に読ませた。読みながら時々鼻を すすっていた彼女は風邪をひいていたので、それが泣いてくれていたのか、ただ鼻水をすすっていたのか、 結局分からず終いだ。^^;

  互いに郷里に戻ってから文通が始まり、約2年後に差出人(彼女)の名字が突然変わっていた時点で文通 は終息した。 彼女からの手紙も、くれた栞も、一度目の結婚の直前に全て廃棄したので、手元にはもうない。  私もイマジネーションの旅に出たら、失ったものが見つかるのだろうか。

日本人「十万分の一の肖像」

今日、知らない方から大きな封筒が届いた。確かに宛名、住所は私に間違いない。
表に、「写真在中」と「折り曲げ厳禁」 のスタンプが押してある。首をかしげながら開封してみた。
写真と添付文書を見て、直ちに事情を理解した。

添付文書

日本人「十万分の一の肖像」

1999年5月から始まった私の自分探しの旅も2001年2月に最後の1200人目の人を東京で無事に撮影して 終了となりました。 その後、膨大な量の現像、プリント作業を2002年の夏までかかって写真を仕上げました。 撮影を快く受けていただいたみなさんに出来上がったプリントをお送りすると言っていましたが、やっと 準備が整い発送する事になりました。

多分写真を写された事さえ覚えていない人もいるかと思いますが、私が感謝の気持ちを込めて焼いたプリントです、 どうぞご笑納ください。

この写真が写真集というまとまった形になるのか今の私には判りませんが、みなさんの お陰でとても素晴らしい経験ができました。

本当にありがとうございました。

河野公俊

東京都***********

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写真家の河野さんは、上記の通り、全国を単身で行脚して1200人のポートレートを撮影されました。 原画は階調が豊かで非常に美しい写真ですが、デジタルに忠実に再現できませんでした。

数年前の写真に感慨がこみ上げました。

現像、プリントにも相当の歳月を費やされましたね。1200人それぞれの人生、想い、また、その編集に携わった 河野さんの情熱に思いを馳せると、胸が苦しくさえなります。

河野さん、ご苦労様でした。 写真集が一日も早く発行できますように、お祈りしています。

甥の結婚式

甥の結婚式のために福岡に行って来た。

ホテルのチャペルでの挙式は最近は多いらしく、ドラマでもお馴染みではあるが、自分には とても新鮮で良い感じがした。親戚、友人にも神官や僧侶がいるので悪いが、訳の分からない祝詞(のりと) やお経を痺れを切らしながら聞いているのより、ずっと良かった。

新婦が若い男性にエスコートされて出て来た。新婦入場だ。   それが、お父さんであることを理解するのに数秒かかった。 予備知識にあった大学教授のお父さんの イメージと結びつかなかったのだ。実際、お父さんもお若かったのだが、結局は自分自身が適齢期のカップルの 親の世代にさしかかっていることに否応なく気付かされた。それらが目まぐるしく数秒の間に頭の中で展開した。

一度鳥取で会っている新婦は、ウェディングドレスに包まれて掛け値無しに美しかった。すらりと伸びた背は お父さんより高かった。新郎もそれに負けずに凛々しく美しく、安心した。

 

新婦入場の後、賛美歌312番を皆で合唱した。

いつくしみ深き 友なるイエスは、
罪とが憂いを とり去りたもう。
こころの嘆きを 包まず述べて、
などかは下ろさぬ 負える重荷を。

途中で声が詰まって最後まで歌えなかった。

 

立派な体格の白人牧師(?)だったが、ややなまりのある日本語が返ってありがたく聞こえた。

聖書の引用は、一般的な「コリント人への第一の手紙、第13章」だった。

“The first epistle of Paul to the Corinthians”
聖パウロがコリント(古代ギリシャの都市?)人の信者に宛てた手紙だそうだ。
(パウロはイエスの使徒だが、もとはキリスト教徒を迫害する熱心なユダヤ教徒であって、イエスの死後に キリストに帰依した。だからイエスの生前の弟子である12使徒の一人ではないそうです。)

1.たといわたしが、人々の言葉や御使いたちの言葉を語っても、もし愛が無ければ、私は 、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
1.If I speak with the tongues of men and of angels, but do not have love, I have become a noisy gong or a clanging cymbal.

2.たといまた、私に預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、また、山を 移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、私は無に等しい。
2.And if I have the gift of prophecy and know all misteries and all knowledge; and if I have all faith, so as to remove mountains, but do not have love, I am nothing.

3.たといまた、私が自分の全財産を人に施しても、また、自分の体を焼かれるために渡しても、 もし愛がなければ、一切は無益である。
3.And if I give all my possessions to feed the poor, and if I deliver my body to be burned, but do not have love, it profits me nothing.

4.愛は寛容であり、愛は情け深い。 またねたむことをしない。 愛は高ぶらない、誇らない、
4.Love is patient, love is kind, and is not jealous; love does not brag and is not arrogant,

5.不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
5.does not act unbecomingly; it does not seek its own, is not provoked, does not take into account a wrong suffered,

6.不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
6.does not rejoice in unrighteousness, but rejoices with the truth;

7.そして、全てを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、全てを耐える。
7.bears all things, believes all things, hopes all things, endures all things.

この辺りまで読まれたと思うが、この章は13節まで続く。

牧師による説教に続き、カップルの誓約、指輪交換、署名、等を経て賛美歌の430番の合唱を経て新郎新婦 の退場を見送った。

披露宴の席は、新カップルのなれそめからして当然ながら、ほとんど**大学医学部の教授や関係者で 占められ、多くの方が温かいスピーチをくださり、突然スピーチを指名されるのを恐れていたが杞憂に終わった。

新婦のお母さんもスラリとした美人で、妙に納得した。 ただ、新郎側の母親の席に座るべき私の姉の姿が 無い事だけが、残念だった。

新郎側の親族を見て、ここでも世代の交代をしみじみと感じた。甥と姪はもとより、一度はかつて”馬” をして背中に乗せた記憶がある、その従兄たちがそれぞれに、立派な医者になり、母親になっているではないか。  3年前の姉の葬儀でも会っているのだが、今回ほどそう感じたことはなかった。    姉はすでにいないが、義兄の親族は私と両親を温かく迎えてくれた。

新郎側に欠けている人はもう一人いた。義父さん(新郎の父方の祖父)だ。十年ほど前に他界され たが、診療医として地元の信頼が厚かっただけでなく、苦学して医者になられたことを裏付ける人格者だった。俳句でも有名で、遠賀野の地には義父さんの句碑が建っている。 句集「遠賀野」は今でも私の書棚にある。句集には姉と義兄の結婚当初の事が詠まれてるものもあり、それからも義父の人柄と慈愛が読みとれる。   元来、眼鏡屋は眼科医にコンプレックスを持っているのだが、そんな私たちにに劣等感を懐かせない配慮をされる方だった。

私の父は、10人兄弟の六男として生まれた。古い家父長制度下で、家に尽くすために生まれたような ものだった。 長男が祖父の後を継ぎ、次男は自宅と地元の百貨店への出店を安堵され、三男は隣の都市に店を 出すきっかけをもらい、四男、五男は戦死、六男が父、七番目は長女だったが幼児期に怪我で死亡、八番目も女で、 末っ子になるはずだった七男に加えて八男が出来たので、八男は親戚に養子に出された。今思うと、祖父の身勝手さには 呆れるしかない。 末っ子の七男を溺愛した祖父は、七男を歯科医にすることにした。二人の息子を戦死させた ことで、何とか末っ子の召集を延ばしたいと考えたのだろう。

父は、結婚後も本家の時計の修理部門を主に担当していた。 現状で将来の希望がないことを感じた父は、祖父に 言った。「独立させて欲しい。」
祖父は「経営というものは大変なんだぞ。仕入れから、経理のことまで、お前に出来る訳が ない。家という木の幹を太らせてこそ、枝や葉が茂るのだ。」と言った。
その後、また父は言った。「それならせめて、時計部門を 私に任せてください。でないと将来の希望が持てません。」
それに対しては、祖父も「まあ、お前の立場からすれば それもそうだな。今度長男に相談してみよう。」と言ったものの、その後の祖父からの返事は、「長男がいやだと言っている。 今となってはわしも強制することはできん。」というものだった。
父は誰の力も借りずに、ほぼ無一文で独立することを決意した。
家を出ると、本家には、翌日にはもう他人の修理技術者が入っていたという。

両親は、母が独身時代に勤めていた材木会社から材木を安く買い、それをリヤカー(人力)で運び、壁土を練って空き地を借りて 平屋を建てた。ショーケースもウィンドウも無い、時計修理屋としてのスタートだった。  前置きが長くなったが、長姉の事を話す前に、両親のスタートの経緯をどうしても話しておく必要があるのだ。

私は長姉より五つ年下なので、貧しさの記憶はさほどないが、長姉は両親の苦労を肌で知っていたようだ。

周囲の反対を押して独立した両親の困窮と不安は半端なものではなかった。子供が病気になったら大変だということで、 父は銭湯で、湯から上がると、厳冬期でも、長姉に足洗い用の冷水槽の水を頭から被せた。父は呆れ顔の他の入浴客の視線を 感じながら自分も冷水を被ったと言う。それが功を奏したかどうかは知らないが、長姉は小学校の6年間、一日も 学校を休まなかった。
長姉は物心付くと家事を手伝った。踏み台に乗って料理の手伝いさえした。ある時、煮え立ったみそ汁の 鍋を前にして、長姉はたすき付きのズポンを履いていた。
振り返り際に、たすきが鍋の柄にひっかかり、煮えたぎるみそ汁は 容赦なく幼女の背中を襲った。重度の火傷を負いながらその時姉が叫んだ言葉は、「熱い!」ではなく、「ごめんなさい!」の泣きながらの連呼だった。  「家族の食事をだめにした事しか頭に無かった。」と私は姉から直接聞いている。背中のケロイドは徐々に縮小したが、名刺の半分くらいの 大きさのケロイドが肩胛骨の辺りに勲章として最後まで残った。

私が産まれた年、まだ明るい内に私を銭湯に連れて行っていた母が銭湯の窓から遠くの空に一筋の煙を見た。 川向こうのようなので、気の毒だと思いながらも その時は気にとめなかったと言う。 それが鳥取大火であった。昭和27年のことである。被災人口2万人以上、焼失面積160ヘクタール、焼失家屋5000戸以上の 大火災だ。 本家とは徒歩で5分とかからない距離ながら、父は火元に少しでも近い本家の家財の退避の手伝いに行き、母は幼児を3人(私と次姉と長姉)かかえて ただ泣きながら右往左往していたという。近所の人は「松本はなんと剛胆なんだろう。この期に及んで何も家財を出さないんだから。」と噂していたそうだ。   本家の家財の搬出は出来たが、やがて火の手は本家にも至り、本家は焼失した。 ぎりぎりの所で自宅は助かったが、父が本家の家財の持ち出しに使用していた自転車が、どさくさで盗まれてしまった。  当時では運搬道具としては、軽自動車くらいの意味があったものだ。もちろん、本家は知らん顔だった。

長姉は勉強も良くした。貧しかったので、一度も塾の類に行った事もなく、家庭教師にも付かなかったが、学業は常にトップだった。  中学くらいになると、両親も長姉には一目を置いていたようだ。 ただ、この頃から医学部に入る頃までの姉は 少々自己中で気難しい所もあった。 闘病中の姉にこの頃の事をメールで話題に出すと、「胸が痛むからやめて、すまなかったと思っている。」と言っていた。   姉は奨学金を受け、家庭教師をしながら国立大の医学部を卒業した。姉の教え子は何人も医者になっている。   私もたまに姉に勉強を習ったが、私がしつこく質問するので、たいていは喧嘩になった。

今振り返ると、姉が人間として成長したのは、結婚し、子供が出来てからではないだろうかと思う。   さらに闘病の末期にピークに達し、ついに人を越えて昇天したのではと思える。

末期には次姉が何度も松江から福岡まで通って献身的に介護した。 それには次姉の夫の深い理解が背景にある。   次姉の夫は長姉の医学部時代の同期生だった。 姉が入院していた癌病棟の主治医には私は良い印象を持っていない。  姉はきゃしゃな体格で、またその軽い体重以上に薬品に敏感であり、抗ガン剤の影響も強かった。何度も投薬量の調整を 依頼したが、担当医は「80歳過ぎの婆さんでもやっているのに・・・」と全く取り合わなかったと言う。

案の定、姉は抗ガン剤の過度な副作用で危険な状態になり、初めて担当医は慌てた。 やがて肺に水が溜まるようになり、見かねた次姉の夫が自分が院長を勤める松江の 病院に長姉を呼び寄せ、そこで奇跡的に少し改善する。一時退院し、次姉の家にも滞在し、次姉の愛犬のお産にも立ち会った。

長姉は最後は福岡で逝ったが、最後の1か月は母が付いた。しかし、父は少し前に切迫心筋梗塞で手術を受けており、その間、次姉夫婦が松江で父を預かってくれていた。   長姉は、自分が医師として出発した頃に子育てで数年間勉強を離れて非常にマイナスだったので、自分のために子供の人生を狂わせることを 徹頭徹尾拒んだ。 だから、自分の娘に「介護のために大学院を休学してくれ。」などとは口が裂けても言わなかっただろう。   ただ、命の終焉を迎えて、どんなにか心細かっただろうと思う。長姉は介護する母に言ったという。「妹を産んでくれててありがとう。」
どんな苦痛にも弱音を吐かなかった長姉だが、一度だけ、まだ鳥取にいた母の携帯に泣きながら電話をかけて来た事がある。それも、一見些細な事だった。 部屋に備えていたナプキンが無くなったというのだ。義兄は心から姉を愛し、献身的に尽くしてくれていたが、やはり介護には女手も必要なのだろう。  その頃、姉の癌はそこらじゅうに転移し、大腸も閉塞して人工肛門になっていた。
その時の母の狼狽ぶりは今でも鮮明に覚えている。母は直ぐに長姉の自宅の前のKさんに泣きながら電話を入れた。夕食時だったにもかかわらず、 Kさんはナプキンを買うと、姉の病院まで車を走らせた。同じ北九州でも、病院までは片道1時間もある距離だった。Kさんの消防士のような素早い対応に 私たちは鳥取の空の下で泣きながら手を合わせていた。
必ずしも体調が万全でない夫と、人と同じくらい賢く、人への依存度の高い愛犬を家に残して、長期に渡って何度も姉を介護した次姉夫妻の 犠牲は計り知れないものがあった。 次姉は母に言った。「姉ちゃんは幸せだよ。これだけみんなに惜しまれ、愛されて逝く。私の時には誰が見てくれる と思うの。」 次姉には子供がいないのだ。
次姉は闘病末期の姉に聞いた。「お姉ちゃん。今一番大切なものは何。」
長姉は小さい声で答えた。「患者さん。」
長姉は体力が続く限り自分の患者も診続けていた。
まさに鉄の意志を持った医師だった。

医者になるのも難しいが、人間になるのはもっと難しい。 これから結婚する者にはそれが言いたい。

昔の日本人は滅私の心を持っていた。「滅私」とは、「滅私奉公」の滅私だ。
あの蜂谷弥三郎さんもその典型だ。蜂谷さんの体験は、どうしても旧ソ連での抑留体験に視線が集まるが、関連著書をいくつか読ませていただくと、 ソ連での体験をされる以前に、すでにそれこそ橋田壽賀子さんの「おしん」に匹敵するほどの波乱と苦悩に満ちた 人生を歩んでおられる。 真田紐を作る工場を経営していた蜂谷さんのお父さんは、発明の才があり、5本の 紐を一緒に織る機械を考案し、生産革命をもたらしたが、親族を含む同業者の猛反発を受け、破産にまで追い込まれた。

蜂谷さんが小学校2年の時だった。私たちから見ると、破産後のお父さんの行動は、一度頂点を極めながら脱落した人が辿り勝ちなように、 決して良い夫、父親のそれではなかったように見える。再起のために蓄えた金を投機に手を出してすってしまい、しばらく家に帰らなかったりした。
立ち直ったお父さんが蜂谷さんを除く家族と朝鮮で暮らしていたころ、蜂谷さんは日本で安定した職に就き、将来を誓う伴侶も決めていた。  当時、体調を崩しかけていたお父さんからの渡鮮の要請に躊躇しながらも、長男としての自覚から、蜂谷さんは久子さんと共に 朝鮮に渡ることを決意する。

その後の概略はテレビでも紹介されている通りだが、ここで言いたいのは、蜂谷さんが被って来た 試みは、全て身から出たものではなく、自分よりも他を思いやる心、つまり滅私の心が図らずも招いたものだった。   朝鮮に渡った動機もそうだが、安岡という卑劣漢に同情し、自宅に招いたことが蜂谷さんの運命を決定付けた。

しかし、どんな逆境の時でも、ごく一握りの清い魂が蜂谷さんのそばにいたことに私たちの心は救われる。酷寒の収容所で 汚物にまみれて死を待つほどに衰弱して異臭を放つ、他の日本人の囚人でさえ近寄らなかった蜂谷さんを気遣ってくれた中国人の年輩の囚人がいたし、強制労働に出る時には 一人で歩けない蜂谷さんを両脇から支える朝鮮人の囚人がいた。また、目をかけてくれ、自宅で食事にまで招待してくれた収容所長。そして、救いの女神クラウディア。  蜂谷さんやクラウディアさんの体験談を読むと、人の魂の輝きの評価に、時代も場所も国籍も宗教も関係ないことが断言できる。

私の父の事も、事実を客観的に述べたが、父自体は大火の時の行動が証明しているように、本家を恨んだりしていない。 付き合いは現在まで普通に続いている。 ただ、父が困窮の渦中にいた頃は、親戚は近寄らなかった。   私の3歳の節句の時、誰も祝いに来ないのに業を煮やした父は、なけなしの金をかき集め、店屋で一番 大きな鯉のぼりを買って帰った。 家の谷間の小さな庭で、鯉は泳がなかった。

個人の自由を圧迫していた古い家父長制度から開放された私たちだが、振り子は 適正位置で止まらず、曲解された過度の個人主義が蔓延し、どんどん反対側に振れて行く気がする。家内は私を世界一親孝行な息子だと言うが、そうではない。  私はただ人間になりたいと思っているだけた。 イエスは言った。「あなたの右の手が盗みをするなら、その右手を切り落としなさい。」と。    私に最終的に残るのは髪の毛くらいかも知れない。

2004年3月1日