Frames of TOA150-BINO near completion(TOA150-BINO用のフレーム、完成間近)

TOA150-BINO is almost completed in my mind, because the most difficult process is successfully completed.Isn’t it amazing that just four rings will make up the frame-work of a large Bisocope?

今回のBINOの最大の難関を突破しました。 大きな材料は、その固定方法も含めて考慮する必要があり、加工は一筋縄では行かないからです。今回のTOA150-BINOのフレーム構造を構成する4個のリングの加工がほぼ完了しました。 類似の方法は、すでに鏡筒バンドを加工した実績があります。 片方のリングをアリミゾにし、片方のリングにアリガタチップを固定すれば、アジャスタブルな形でメガネプレートが構成できます。

Frame material for TOA150-BINO(TOA150-BINO用のフレーム素材)

Four pieces of this ring will make an innovative frame for the TOA150-BINO.

このリング4個でTOA150-BINOのフレームの主要部を構成する目算です。1枚プレートから削り出す方法は、この規模になるとマシンのキャパの制約もあり、また組み付け作業を容易にするために、敢えてリングを加工後に組み合わせてメガネプレートを構成する方法を採ることにしました。

今回は、ドーム内に据付設置(LX80マウント)という条件なので、鏡筒やBINO本体を架台から頻繁に取り外すことは考慮せず、 より軽量で剛性が得られることを優先します。 (LX80マウントでも厳しい総搭載重量になりますが、 最初にご相談を受けた、NJP赤道儀に回転装置ごと搭載する計画よりは、はるかに現実的だと思います。)

Larger EMS housings for TOA150-BINO(TOA150-BINO用の大型EMSハウジング)

The larger housings for the TOA150-BINO in the processing. Every screw and hole has each role and there is nothing that has no meaning.I would like all of you to to understand the mechanism of EMS. I was rather shocked when one of the client told me “One of the three thum screws for adjusting the mirror is dropped off.”.

すでにお気付きのように、当サイトでは工程のノウハウの多くを包み隠さずに公開しています。その方が、ブラックボックスのままお使いになるよりも、よりEMS-BINOの真価を発揮していただけると思うからです。 写真は、着手中のTOA150-BINO用の大型EMSハウジングです。ネジの一つにも、穴の一つにも意味のない物はありません。 未来のユーザーの方は、製作段階より、BINOの内部メカの理解を進めておいていただきたいと思います。 (不幸な例としては、数年間EMS-BINOを使用された方から、「右のEMSの第一ハウジングの3つの^^;調整用ローレットネジの頭の一つが脱落しています。」という問い合わせにショックを受けたことがあります。 ご覧のように、調整ノブはもともとX,Yの二つしかありません。3個目の突起は、前記ノブに復元力を与えるスプリング機構です。「高価な機材を買ったのに、(印刷物の)マニュアル1枚も添付されていない。」とお叱りを受けたことがありますが、製作者としましては、当サイト全体がマニュアルだと考え、相応の時間的な犠牲を払ってサイトを更新しておりますので、その辺の認識を共有していただけますと幸です。)

The second monthly return of my father’s death (2回目の月命日)

The second monthly return of my father’s death is over, two days ago. Time has lapsed very rapidly because there were so many tasks to deal with after his death.

I had thought to write about his agony and chagrin through his life that he could not express in his lifetime. But, I could write only a kind of prelude that seems to be no offense to anybody.

I might be wrong to think of any kind of revenge for my father, but I should just pray for his welfare in heaven.

早いもので、父の2回目の月命日が過ぎました。

私が父と離れて暮らしたのは高校卒業後に大阪の眼鏡の専門学校に行った時のみで、現代では、むしろ特異なケースかも知れません。
父の創業期の苦労を共有したことはもとより、私は父の少青年期の苦難や無念を当人の口から直接聞いて育ったので、父が「単なる温厚な眼鏡屋の主人…」という周りの認識にある種の歯痒さを感じていました。 むしろ、父の闇の部分をさらけてこそ、父を真に理解してもらえることだと考えたのですが、結果的には、2回目の月命日が過ぎても、本論に入ることが出来ませんでした。 筆(キー)が重くて進まないのです。 それと、そんな重い話は誰も聞きたくないのだろうな、ということが漠然と分かってきたこともあります。 本当は、娘や、甥姪等の親族には聞かせておきたいことなのですが、まだその機が熟していないのかも知れません。

49th Day’s Sermon (四十九日法要)

Twenty-five relatives gathered in the temple yesterday to hold the Buddhist sermon of “49th Day” for my father.

Buddihism believes the dead will be judged by his or her righteousness to go to Heaven, or land in the Hell, on the very day of 49 days after the death.

I know my father had met many heartless peolple through his life, but He must have forgiven them in the discipline period of the 49 days after his death to pass the final test to go to Heaven. I wish he had done so.

昨日、25名の親族が集まって、父の四十九日法要を済ませました。 人の最後(というか死後の最初の)の仕事は、「親族を再び引き寄せること・・」かなあ、と感じました。

LX80Mount and NEXUS, proved to be compatible!! / LX80マウントでNEXUS+SkySafari3(-Pro/Plus)が使えます!!

NEXUS has also proved to be compatible with the LX80 Mount!!(The cords of the serial cable of the older version of the NEXUS, one year ago shoul be swapped to act as a correct serial cable, though.)

Here is an instruction movie by my friend.

先日のSkyFi に引き続き、NEXUSもLX80マウントで使えることをT さんが検証してくださいました。ただ、私が購入した1年前のNEXUSに添付されていたケーブルは、コネクターの結線が間違っていたそうで、それを修正する必要はありました。(多分、あの頃のNEXUSに添付されていたシリアルケーブルは同じだと思います。 ただ、エンコーダ用(PushTo)だけで使っている方は全く関係ありません。)

(2月23日追記)上記動画を T さんが”YouTube” に投稿してくださいました。 お陰で再生しやすくなりました。 また、iPhone等のスマホやタブレットからも見られるようになりました。 T さんに合掌!!(2月24日追記:WIFI環境がない所だと再生しにくいので、さらに対策を考えていただいています。)

LX80Mount and SkyFi, proved to be compatible!! / LX80マウントでSkyFi+SkySafari3(-Pro/Plus)が使えます!!

Now, it is finally proved that LX80 Mount is perfectly compatible with the SkyFi and SkySafari!!! It is unbelievable that I am the first to clearly anounce the fact in all the Astronomy Manias in all over the world.

結果的には当然のことを確認しただけなのですが、世界広しと言うのに、どうしてこの私が最初に検証することになったのでしょう??^^; 架台メーカーも、世界中の代理店さんも、誰もはっきりした回答をくれませんでした。

メーカーさん等が”周辺機器も含めて自社の純正品を売りたい”という、営業戦略上の事情も分かりますが、情報の開示にあまりにも”消極的”を越えて意図的に閉鎖的だった(ミード本社は問い合わせメールにすら返信しなかった)ことは大いに批判に値すると思いました。 それに引き換え、献身的に協力してくださったデジタル技師のTさんとAさんには深く感謝し、またこのご両名には、天文を愛好する世界中の仲間より惜しみない喝采を送っていただきたいと思います。

ここに、私が初めて断言します。「LX80でSkyFiが動きます!!」  Tさんが以下の動画を準備してくださっていますので、ご参照ください。

また、引き続いてNEXUSも検証していただく予定で、これも間違いなく動くはずですので、ご期待ください。

Memory of my Dad (6) (父の想い出(6))

This photo was taken on New Year’s day when my father was 19 years old. The right guy is his friend of the same age.
My father was dominated by his strict father (my grand-pa) through his childhood and youth.
Father was one of the typical victim of the feudalistic family system of before the war.
Father, who was the sixth son, was treated just as a foot man only to serve the Banu.

松本家の確かな系図は、池田光仲候が岡山から鳥取に国替えになった時に、同行した 御用商人の松本治郎平に始まるようです。 町人でしたが、名字帯刀を許されていました。 口頭の伝承では、先祖は角倉了以の12人の子の誰かということですが、これは残念ながら証拠がありません。 ただ、先祖が了以を尊敬していたことだけは確かのようです。(余談ですが、角倉と鴻池が京都で財宝比べをすることになり、鴻池が当時の至極の財宝を台車に満載して京の町を練り歩いたのに対し、角倉は自分の12人の子供を車に乗せて回った・・という話も伝わっています。^^;)

以下、池田光仲候について、Wikipediaからの勝手な抜粋です。
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寛永9年(1632年)父・忠雄が死去し、わずか3歳で家督を継ぐこととなった。幼少のため山陽道の要所岡山を治め難いとされたが、徳川家康の曾孫ということもあり改易とはならず、光仲は因幡・伯耆を有する鳥取藩32万石に、従兄で鳥取藩主となっていた池田光政が岡山藩31万5,000石へ国替えとなった。この際に、叔父の池田輝澄(播磨国山崎藩主)、輝興(播磨国赤穂藩主)、さらに光政が後見人として充てられた。幼少のために江戸藩邸に在住し、領国経営は荒尾氏を筆頭とする家老を中心とした側近に委ねられた。光仲が領国に初入国したのは慶安元年(1648年)、藩主となって16年を経てからである。
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永代供養になっている松本家の墓が高野山にもありますが、上の記述の荒尾家老の 墓石と並んでいます。

以上は、何も先祖の自慢ではなく、父が厳格に封建的な家族制度の元で育ったということをお知らせしたいために引用したものです。  ”家”を存続することが、何よりも優先され、それを護持するためには、個人の命や幸せは 取るに足らないものとされていました。 だから、家の都合により、子供は養子として物のように た易くやり取りされていました。 父は養子には出されませんでしたが、独立を求めた父に対し、 祖父も長兄も冷たく、反対を押し切って家を出た父には何の援助も与えられせんでした。

長兄よりも人当たりが良く有能だった父は、まさに長兄が頼朝なら、義経のような存在だったに違いありません。 父の長兄は「どうせすぐにケツを割って戻って来るだろう・・・」と、敢えて 冷たくしたのでしょうが、明日の食べ物にも困った父の困窮、家族を飢えさせることを怖れた戦慄は半端ではありませんでした。

四十九日は、仏教では仏になるか地獄に行くかの審判が下される日だそうですが、それが 近付いています。 父が長兄や祖父を許し、和解していれば、多分仏になるのだろうし、 そうでなければ地獄行きかも知れません。^^; 「地獄にでもどこでも行ってやろうじゃないか・・・」というのが生前の父のスタンスでしたが、49日の修行でどう変わったかが問題です。^^;

Memory of my Dad (5) (父の想い出(5))

The top photo: My grandfather.
The center photo: My grandmother and her six of seven children, followed by another three afterward. The oldest son was out of the frame because he was in a bad mood. I also notice grandfather was out of the frame, too. My father, sixth son, is in the third from right.
The bottom photo: My father in his 21 years’.

従姉の証言によると、祖父は一人用の高脚膳で家族とは別メニューの食事をし、祖母は 祖父の食事が終わるまで側で給仕したそうです。 便所も祖父だけの畳敷きのが家族用とは全く違う場所にあり、家族は 見るのは良いが、使うのはご法度だったそうです。^^;

上の写真が祖父、中央の写真は、祖母と6人の子供たち。 ただ、この時、長男はご機嫌斜めで写真に入っていません。 右から3人目の一番幼いのが六男の父です。 祖母に抱かれているのは幼くして他界した父の妹、両端の男の子が右から四男と五男で、 それぞれフィリピン(ミンダナオ)と大陸で戦死しました。 下の写真は21歳頃の父。(・・・つづく)

Memory of my Dad (4) (父の想い出(4))

Here is one of the common American friends of my Dad and Uncle. This photo is provied by my cousin, but I have also his shot with my Dad, which I have not yet scanned. The shutter of the camera must have pushed by my father. The right photo seems to be his wife and children. Those two photo was found separately by my cousin and I found they are his families because of the names written on the rear side of the photo.

終戦後に進駐軍が鳥取に入った初日、ほとんどの商店が固く店を閉ざしていた中で、父の店(時計メガネ店)と叔父の店(電器店)(隣同士)だけは開店して待ち構えていました。 父と叔父は、叔父が作った短波受信機で客観的な戦況を常に(隠れて^^;)傍受していたので、終戦をより冷静に受け止めることが 出来ました。

左の写真は父と叔父の共通の米兵の友人で、これは叔父と写っていますが、父と写った写真が当家にも ありました。 (後日探してスキャンする予定です。) 奥さんと子供さんの写真は叔父が持っていたものです。 大切な家族の写真を託すほどの信頼関係を進駐軍の兵士との間に、短期間に構築していた父と叔父に新鮮な驚きを覚えます。 撮影場所は鳥取市内の 久松公園です。 友人の家族の写真は、もちろん米国内で撮ったものでしょう。(友人の写真と家族の写真は全く別の (従弟から借りた)アルバムで見つけましたが、家族写真の裏書から関係を突き止めました。)

私が子供の頃に父から聞かされた この時期のエピソードは山ほどありますが、長くなるので、今日は書くのをやめておきます。