8月9日は、広島の3日後に長崎に原爆が落とされた日。 アメリカでは、「原爆によって戦争の終結を早め、戦争が長引けば予想された、より多くの人命の損失を回避した。」 と教えている らしい。
旧約聖書には、神によって焼き払われた二つの邪悪な都市、ソドムとゴモラの話がある。 まずは非白人であり、 異教徒とみなしていた国民への仕打ちには、もともとその行為を正当化させるだけの文化的土壌のようなものが、当時の 連合国の間、特にアメリカ人の中にはあったのではないだろうか。
今日のテレビのニュースで、長崎の浦上天守堂での追悼ミサの状況が放映されていた。 被爆したマリア像の首を、 教会関係者がうやうやしく祭壇に掲げていた。 恐らく、日本にもキリスト教が根付いていること、 ましてこれだけ大きな礼拝堂があることを、当時はおろか、今でも知っている旧連合国民はほとんどいないだろう。 無惨に被爆したマリア像の首の映像を、アメリカの人々にぜひ見てもらいたいものだ。
二十年前にアメリカの友人を訪ねた時、友人は自分の地元の親友も招いていて、3人でこんな会話になった。
Mr.K: 「(太平洋戦争で)何でお前らはPearl Harborだけ攻撃して帰ってしまったのかいな。 本土に上陸してアメリカ人 を皆*しにすりゃあ良かったのに。」
私: 「そんな余裕も準備もあった訳がないでしょう。」
牧師にあるまじき投げかけに少し驚いたが、むしろ、そんな型破りのMr.Kを私は気に入っていた。 試されているような気もしたが、しどろもどろにまるで見て来たかのように答弁する自分自身に可笑しささえ感じていた。
Mr.K: 「それに、南の島ばかり取って何になるだい。」
私: 「資源が無いので、まずは足場を固めないと・・・」
それからMr.Kは地元の親友と、「日本の兵隊が世界で一番強い・・」という意味のことを話して、互いに納得していた。
Mr.Kは親日家という言葉では表せないほど、日本や日本人に対する思い入れは尋常ではなかった。 それは時にはうっと うしくなるほどであり、結果的に疎遠になってしまった原因ともなり、やがて音信不通になり、最近、彼の死がほぼ確定的 になるに至って、今や贖罪の念が私自身に重くのしかかっている。
Mr.Kは現地のレストランで私を接待しても、決してテーブルにチップを置かなかった。 それについて私が尋ねると、 「こんな生産性のないやつらにやる金はない。日本人ならいくらでもやる。」と聞こえよがしに言っていた。
Mr.Kは職が安定しなかった父親のために高校を卒業するまでに11回も転校させられた。 「自分の名は父が闇品売買で 刑務所に入っていた時の父の務所仲間の名だ。」と、自分の生い立ちをさらりと打ち明けた。
Mr.Kは高校を卒業すると、空軍に入り、配属されたのが日本だった。 大学に進学する学費を稼ぐためであり、実際、 除隊後に高校教師になり、牧師にもなった。 日本にいた数年の間にMr.Kは初めて、親友と言える友に巡り会う。 その日本人 の親友は、なぜか英語が流暢で、友に日本語を教えなかった。その日本人青年も、食卓で日本語を話すと父に箸箱で頭を叩かれ て育ったという希有な生い立ちを持っていた。 暗い陰を持つ、数年年上の日本人青年をMr.Kは師と仰ぎ、最愛の友とし、 心酔して行った。 しかし、日本人の親友は、妻がポリオを患う等の不運の末、自殺してしまう。若い頃のMr.Kと日本人青年が 一緒に写った写真を私は彼から貰って、今でも持っている。
Mr.Kにまつわる話には、それだけで小説が何冊も書けそうなほどのドラマがあるが、脱線がエスカレートしそうなので、 じっと我慢して本題に戻る。 そんなMr.Kが送ってくれていた現地のテレビのドキュメント番組のビデオを思い出したのだ。
それは広島に投下された原爆に関する特集番組であった。 何と、それは延々と1時間以上も続いていた。 ニューメキシ コ州のロスアラモス、砂漠の真ん中に原爆製造のための都市が作られた。 科学者と技術者を家族ごとそこに隔離し、学校や 病院等の施設まで作った。 わずか3年足らずで原爆の実験に成功し、1か月も待たずに広島と長崎に投下されたのだ。
番組の中でインタビューに答えていた(オッペンハイマーは番組制作時にはすでに他界していたはずなので、古い記録 だろう)、当時の原爆製造プロジェクトのリーダーだった、晩年のオッペンハイマーの深い眉間の皺が彼自身の苦悩を物語っ ていた。 また、日本から送られたであろう被爆者のインタビューも、原音入りで長時間に渡って流されていて、被爆者が直 接描いた生々しい絵も同時に紹介されながらの英語への同時通訳が興味深かった。 聞き取れない部分が多かったが、広島に 投下された原爆についての特集が、これだけ詳しくアメリカで放映されたことに一番驚いた。日本でもこれだけ詳しいドキュメ ントが作られたことが何度あったろう。
原爆投下を正当化するのもアメリカ人なら、極めて中立に原爆を描写しようとするアメリカ人もいる。 また、Mr.Kの ようなアメリカ人も。 多様性が日本よりは許容されている国と言えるのだろうか。
ただ、偏見も愛着も極めて危うい両刃の剣。 人が二人いれば社会が生まれる。 家族、地区、都市、県、国、スケール は異なるが、原点は人。
私がMr.Kを訪問している時に、彼はこんな話を自慢げにした。 「黒人の貧しい生徒の父親が死んだので、私がタダで葬式を出してやった。 その時、同僚の黒人の女先生がMr.Kに言った。 『あなた、そんな地区に行ったら殺されるわよ!』」
ところが、滞在中に彼と一緒にテネシー州に小旅行に行った時、ホテルの部屋で、廊下を話しながら通る3人ほどの客の 声を聞きながら、「おい、聞いてみろ。3人のうち二人は黒人だ。アクセントの違いで分かるんだ。」と言っていた彼の様子か ら、Mr.Kの偏見フリーの限界を見た。
私がMr.Kを訪問した次の年の夏に、今度は彼が私を訪問した。 後になって分かったことだが、Mr.Kの妻は日本に固執する 夫に、いみじくもこう吐き捨てたそうだ。
「そんなにまでしてジャップと地べたに座りたいの?!」
私がMr.K宅に滞在中、彼の妻は一通り親切にしてくれたものの、顔は微笑んでも目が笑っていなかったので、何となく歓迎 されていないことは分かっていた。洗濯物は私のパンツまで家族と同じ洗濯機で洗っていたが、火力発電所を見学して帰った時、 私の白に近い薄茶色のズボンの裾が石炭の粉で汚れていて、彼女が漂白したら、まだらに脱色してしまったことがあった。 彼女が手放しで笑ったのはその時だけだった。^^;
私の所を訪問して帰国した、牧師のMr.Kは長年連れ添った奥さんと離婚した。