甥の結婚式

甥の結婚式のために福岡に行って来た。

ホテルのチャペルでの挙式は最近は多いらしく、ドラマでもお馴染みではあるが、自分には とても新鮮で良い感じがした。親戚、友人にも神官や僧侶がいるので悪いが、訳の分からない祝詞(のりと) やお経を痺れを切らしながら聞いているのより、ずっと良かった。

新婦が若い男性にエスコートされて出て来た。新婦入場だ。   それが、お父さんであることを理解するのに数秒かかった。 予備知識にあった大学教授のお父さんの イメージと結びつかなかったのだ。実際、お父さんもお若かったのだが、結局は自分自身が適齢期のカップルの 親の世代にさしかかっていることに否応なく気付かされた。それらが目まぐるしく数秒の間に頭の中で展開した。

一度鳥取で会っている新婦は、ウェディングドレスに包まれて掛け値無しに美しかった。すらりと伸びた背は お父さんより高かった。新郎もそれに負けずに凛々しく美しく、安心した。

 

新婦入場の後、賛美歌312番を皆で合唱した。

いつくしみ深き 友なるイエスは、
罪とが憂いを とり去りたもう。
こころの嘆きを 包まず述べて、
などかは下ろさぬ 負える重荷を。

途中で声が詰まって最後まで歌えなかった。

 

立派な体格の白人牧師(?)だったが、ややなまりのある日本語が返ってありがたく聞こえた。

聖書の引用は、一般的な「コリント人への第一の手紙、第13章」だった。

“The first epistle of Paul to the Corinthians”
聖パウロがコリント(古代ギリシャの都市?)人の信者に宛てた手紙だそうだ。
(パウロはイエスの使徒だが、もとはキリスト教徒を迫害する熱心なユダヤ教徒であって、イエスの死後に キリストに帰依した。だからイエスの生前の弟子である12使徒の一人ではないそうです。)

1.たといわたしが、人々の言葉や御使いたちの言葉を語っても、もし愛が無ければ、私は 、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
1.If I speak with the tongues of men and of angels, but do not have love, I have become a noisy gong or a clanging cymbal.

2.たといまた、私に預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、また、山を 移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、私は無に等しい。
2.And if I have the gift of prophecy and know all misteries and all knowledge; and if I have all faith, so as to remove mountains, but do not have love, I am nothing.

3.たといまた、私が自分の全財産を人に施しても、また、自分の体を焼かれるために渡しても、 もし愛がなければ、一切は無益である。
3.And if I give all my possessions to feed the poor, and if I deliver my body to be burned, but do not have love, it profits me nothing.

4.愛は寛容であり、愛は情け深い。 またねたむことをしない。 愛は高ぶらない、誇らない、
4.Love is patient, love is kind, and is not jealous; love does not brag and is not arrogant,

5.不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
5.does not act unbecomingly; it does not seek its own, is not provoked, does not take into account a wrong suffered,

6.不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
6.does not rejoice in unrighteousness, but rejoices with the truth;

7.そして、全てを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、全てを耐える。
7.bears all things, believes all things, hopes all things, endures all things.

この辺りまで読まれたと思うが、この章は13節まで続く。

牧師による説教に続き、カップルの誓約、指輪交換、署名、等を経て賛美歌の430番の合唱を経て新郎新婦 の退場を見送った。

披露宴の席は、新カップルのなれそめからして当然ながら、ほとんど**大学医学部の教授や関係者で 占められ、多くの方が温かいスピーチをくださり、突然スピーチを指名されるのを恐れていたが杞憂に終わった。

新婦のお母さんもスラリとした美人で、妙に納得した。 ただ、新郎側の母親の席に座るべき私の姉の姿が 無い事だけが、残念だった。

新郎側の親族を見て、ここでも世代の交代をしみじみと感じた。甥と姪はもとより、一度はかつて”馬” をして背中に乗せた記憶がある、その従兄たちがそれぞれに、立派な医者になり、母親になっているではないか。  3年前の姉の葬儀でも会っているのだが、今回ほどそう感じたことはなかった。    姉はすでにいないが、義兄の親族は私と両親を温かく迎えてくれた。

新郎側に欠けている人はもう一人いた。義父さん(新郎の父方の祖父)だ。十年ほど前に他界され たが、診療医として地元の信頼が厚かっただけでなく、苦学して医者になられたことを裏付ける人格者だった。俳句でも有名で、遠賀野の地には義父さんの句碑が建っている。 句集「遠賀野」は今でも私の書棚にある。句集には姉と義兄の結婚当初の事が詠まれてるものもあり、それからも義父の人柄と慈愛が読みとれる。   元来、眼鏡屋は眼科医にコンプレックスを持っているのだが、そんな私たちにに劣等感を懐かせない配慮をされる方だった。

私の父は、10人兄弟の六男として生まれた。古い家父長制度下で、家に尽くすために生まれたような ものだった。 長男が祖父の後を継ぎ、次男は自宅と地元の百貨店への出店を安堵され、三男は隣の都市に店を 出すきっかけをもらい、四男、五男は戦死、六男が父、七番目は長女だったが幼児期に怪我で死亡、八番目も女で、 末っ子になるはずだった七男に加えて八男が出来たので、八男は親戚に養子に出された。今思うと、祖父の身勝手さには 呆れるしかない。 末っ子の七男を溺愛した祖父は、七男を歯科医にすることにした。二人の息子を戦死させた ことで、何とか末っ子の召集を延ばしたいと考えたのだろう。

父は、結婚後も本家の時計の修理部門を主に担当していた。 現状で将来の希望がないことを感じた父は、祖父に 言った。「独立させて欲しい。」
祖父は「経営というものは大変なんだぞ。仕入れから、経理のことまで、お前に出来る訳が ない。家という木の幹を太らせてこそ、枝や葉が茂るのだ。」と言った。
その後、また父は言った。「それならせめて、時計部門を 私に任せてください。でないと将来の希望が持てません。」
それに対しては、祖父も「まあ、お前の立場からすれば それもそうだな。今度長男に相談してみよう。」と言ったものの、その後の祖父からの返事は、「長男がいやだと言っている。 今となってはわしも強制することはできん。」というものだった。
父は誰の力も借りずに、ほぼ無一文で独立することを決意した。
家を出ると、本家には、翌日にはもう他人の修理技術者が入っていたという。

両親は、母が独身時代に勤めていた材木会社から材木を安く買い、それをリヤカー(人力)で運び、壁土を練って空き地を借りて 平屋を建てた。ショーケースもウィンドウも無い、時計修理屋としてのスタートだった。  前置きが長くなったが、長姉の事を話す前に、両親のスタートの経緯をどうしても話しておく必要があるのだ。

私は長姉より五つ年下なので、貧しさの記憶はさほどないが、長姉は両親の苦労を肌で知っていたようだ。

周囲の反対を押して独立した両親の困窮と不安は半端なものではなかった。子供が病気になったら大変だということで、 父は銭湯で、湯から上がると、厳冬期でも、長姉に足洗い用の冷水槽の水を頭から被せた。父は呆れ顔の他の入浴客の視線を 感じながら自分も冷水を被ったと言う。それが功を奏したかどうかは知らないが、長姉は小学校の6年間、一日も 学校を休まなかった。
長姉は物心付くと家事を手伝った。踏み台に乗って料理の手伝いさえした。ある時、煮え立ったみそ汁の 鍋を前にして、長姉はたすき付きのズポンを履いていた。
振り返り際に、たすきが鍋の柄にひっかかり、煮えたぎるみそ汁は 容赦なく幼女の背中を襲った。重度の火傷を負いながらその時姉が叫んだ言葉は、「熱い!」ではなく、「ごめんなさい!」の泣きながらの連呼だった。  「家族の食事をだめにした事しか頭に無かった。」と私は姉から直接聞いている。背中のケロイドは徐々に縮小したが、名刺の半分くらいの 大きさのケロイドが肩胛骨の辺りに勲章として最後まで残った。

私が産まれた年、まだ明るい内に私を銭湯に連れて行っていた母が銭湯の窓から遠くの空に一筋の煙を見た。 川向こうのようなので、気の毒だと思いながらも その時は気にとめなかったと言う。 それが鳥取大火であった。昭和27年のことである。被災人口2万人以上、焼失面積160ヘクタール、焼失家屋5000戸以上の 大火災だ。 本家とは徒歩で5分とかからない距離ながら、父は火元に少しでも近い本家の家財の退避の手伝いに行き、母は幼児を3人(私と次姉と長姉)かかえて ただ泣きながら右往左往していたという。近所の人は「松本はなんと剛胆なんだろう。この期に及んで何も家財を出さないんだから。」と噂していたそうだ。   本家の家財の搬出は出来たが、やがて火の手は本家にも至り、本家は焼失した。 ぎりぎりの所で自宅は助かったが、父が本家の家財の持ち出しに使用していた自転車が、どさくさで盗まれてしまった。  当時では運搬道具としては、軽自動車くらいの意味があったものだ。もちろん、本家は知らん顔だった。

長姉は勉強も良くした。貧しかったので、一度も塾の類に行った事もなく、家庭教師にも付かなかったが、学業は常にトップだった。  中学くらいになると、両親も長姉には一目を置いていたようだ。 ただ、この頃から医学部に入る頃までの姉は 少々自己中で気難しい所もあった。 闘病中の姉にこの頃の事をメールで話題に出すと、「胸が痛むからやめて、すまなかったと思っている。」と言っていた。   姉は奨学金を受け、家庭教師をしながら国立大の医学部を卒業した。姉の教え子は何人も医者になっている。   私もたまに姉に勉強を習ったが、私がしつこく質問するので、たいていは喧嘩になった。

今振り返ると、姉が人間として成長したのは、結婚し、子供が出来てからではないだろうかと思う。   さらに闘病の末期にピークに達し、ついに人を越えて昇天したのではと思える。

末期には次姉が何度も松江から福岡まで通って献身的に介護した。 それには次姉の夫の深い理解が背景にある。   次姉の夫は長姉の医学部時代の同期生だった。 姉が入院していた癌病棟の主治医には私は良い印象を持っていない。  姉はきゃしゃな体格で、またその軽い体重以上に薬品に敏感であり、抗ガン剤の影響も強かった。何度も投薬量の調整を 依頼したが、担当医は「80歳過ぎの婆さんでもやっているのに・・・」と全く取り合わなかったと言う。

案の定、姉は抗ガン剤の過度な副作用で危険な状態になり、初めて担当医は慌てた。 やがて肺に水が溜まるようになり、見かねた次姉の夫が自分が院長を勤める松江の 病院に長姉を呼び寄せ、そこで奇跡的に少し改善する。一時退院し、次姉の家にも滞在し、次姉の愛犬のお産にも立ち会った。

長姉は最後は福岡で逝ったが、最後の1か月は母が付いた。しかし、父は少し前に切迫心筋梗塞で手術を受けており、その間、次姉夫婦が松江で父を預かってくれていた。   長姉は、自分が医師として出発した頃に子育てで数年間勉強を離れて非常にマイナスだったので、自分のために子供の人生を狂わせることを 徹頭徹尾拒んだ。 だから、自分の娘に「介護のために大学院を休学してくれ。」などとは口が裂けても言わなかっただろう。   ただ、命の終焉を迎えて、どんなにか心細かっただろうと思う。長姉は介護する母に言ったという。「妹を産んでくれててありがとう。」
どんな苦痛にも弱音を吐かなかった長姉だが、一度だけ、まだ鳥取にいた母の携帯に泣きながら電話をかけて来た事がある。それも、一見些細な事だった。 部屋に備えていたナプキンが無くなったというのだ。義兄は心から姉を愛し、献身的に尽くしてくれていたが、やはり介護には女手も必要なのだろう。  その頃、姉の癌はそこらじゅうに転移し、大腸も閉塞して人工肛門になっていた。
その時の母の狼狽ぶりは今でも鮮明に覚えている。母は直ぐに長姉の自宅の前のKさんに泣きながら電話を入れた。夕食時だったにもかかわらず、 Kさんはナプキンを買うと、姉の病院まで車を走らせた。同じ北九州でも、病院までは片道1時間もある距離だった。Kさんの消防士のような素早い対応に 私たちは鳥取の空の下で泣きながら手を合わせていた。
必ずしも体調が万全でない夫と、人と同じくらい賢く、人への依存度の高い愛犬を家に残して、長期に渡って何度も姉を介護した次姉夫妻の 犠牲は計り知れないものがあった。 次姉は母に言った。「姉ちゃんは幸せだよ。これだけみんなに惜しまれ、愛されて逝く。私の時には誰が見てくれる と思うの。」 次姉には子供がいないのだ。
次姉は闘病末期の姉に聞いた。「お姉ちゃん。今一番大切なものは何。」
長姉は小さい声で答えた。「患者さん。」
長姉は体力が続く限り自分の患者も診続けていた。
まさに鉄の意志を持った医師だった。

医者になるのも難しいが、人間になるのはもっと難しい。 これから結婚する者にはそれが言いたい。

昔の日本人は滅私の心を持っていた。「滅私」とは、「滅私奉公」の滅私だ。
あの蜂谷弥三郎さんもその典型だ。蜂谷さんの体験は、どうしても旧ソ連での抑留体験に視線が集まるが、関連著書をいくつか読ませていただくと、 ソ連での体験をされる以前に、すでにそれこそ橋田壽賀子さんの「おしん」に匹敵するほどの波乱と苦悩に満ちた 人生を歩んでおられる。 真田紐を作る工場を経営していた蜂谷さんのお父さんは、発明の才があり、5本の 紐を一緒に織る機械を考案し、生産革命をもたらしたが、親族を含む同業者の猛反発を受け、破産にまで追い込まれた。

蜂谷さんが小学校2年の時だった。私たちから見ると、破産後のお父さんの行動は、一度頂点を極めながら脱落した人が辿り勝ちなように、 決して良い夫、父親のそれではなかったように見える。再起のために蓄えた金を投機に手を出してすってしまい、しばらく家に帰らなかったりした。
立ち直ったお父さんが蜂谷さんを除く家族と朝鮮で暮らしていたころ、蜂谷さんは日本で安定した職に就き、将来を誓う伴侶も決めていた。  当時、体調を崩しかけていたお父さんからの渡鮮の要請に躊躇しながらも、長男としての自覚から、蜂谷さんは久子さんと共に 朝鮮に渡ることを決意する。

その後の概略はテレビでも紹介されている通りだが、ここで言いたいのは、蜂谷さんが被って来た 試みは、全て身から出たものではなく、自分よりも他を思いやる心、つまり滅私の心が図らずも招いたものだった。   朝鮮に渡った動機もそうだが、安岡という卑劣漢に同情し、自宅に招いたことが蜂谷さんの運命を決定付けた。

しかし、どんな逆境の時でも、ごく一握りの清い魂が蜂谷さんのそばにいたことに私たちの心は救われる。酷寒の収容所で 汚物にまみれて死を待つほどに衰弱して異臭を放つ、他の日本人の囚人でさえ近寄らなかった蜂谷さんを気遣ってくれた中国人の年輩の囚人がいたし、強制労働に出る時には 一人で歩けない蜂谷さんを両脇から支える朝鮮人の囚人がいた。また、目をかけてくれ、自宅で食事にまで招待してくれた収容所長。そして、救いの女神クラウディア。  蜂谷さんやクラウディアさんの体験談を読むと、人の魂の輝きの評価に、時代も場所も国籍も宗教も関係ないことが断言できる。

私の父の事も、事実を客観的に述べたが、父自体は大火の時の行動が証明しているように、本家を恨んだりしていない。 付き合いは現在まで普通に続いている。 ただ、父が困窮の渦中にいた頃は、親戚は近寄らなかった。   私の3歳の節句の時、誰も祝いに来ないのに業を煮やした父は、なけなしの金をかき集め、店屋で一番 大きな鯉のぼりを買って帰った。 家の谷間の小さな庭で、鯉は泳がなかった。

個人の自由を圧迫していた古い家父長制度から開放された私たちだが、振り子は 適正位置で止まらず、曲解された過度の個人主義が蔓延し、どんどん反対側に振れて行く気がする。家内は私を世界一親孝行な息子だと言うが、そうではない。  私はただ人間になりたいと思っているだけた。 イエスは言った。「あなたの右の手が盗みをするなら、その右手を切り落としなさい。」と。    私に最終的に残るのは髪の毛くらいかも知れない。

2004年3月1日