Woo Pinn / ウーピン

I’d like to share a true story with you that has been handed down from my grandpa to my father and then to me. It’s a story of a man who was a very good customer of my grandfather’s. At that time my grandfather dealt in watches, jewelry and phonographs and whenever a new recording was released the man would be the first to order it.

The customer was a very considerate and refined middle aged gentleman living alone. He had a profound knowledge of music and he usually called the shop for delivery just before noon. All of the staff used to scramble for this delivery because he would always invite the staff member into his house to listen to the new recording and then realizing the time, would ask the lucky employee to lunch.

He always had everything delivered. All the neighborhood shops were happy to come to his home and were always treated the same way. However, no one really knew what he did for a living.

One day the kimono shop owner asked him. “Do you mind telling me what it is you do for living?” He went to the closet and took out a wad of ten-yen bills, which today would be the equivalent to ten thousand yen bills. He then said, “Watch.” And lit the note. Before the note burned completely he put it out and gave the remaining half to the kimono shop dealer. “This note is so perfectly made no one has ever detected it to be counterfeit. “He then instructed the dealer to take the half a note to the bank to exchange it for a new one.

The shop owner rushed to the bank and was amazed when the bank, asking no questions exchanged the damaged bill for a new, genuine one. He immediately went back to the man and asked how he had done it. He answered, “A man called Woo Pinn made the counterfeit bills in Korea. If you send him 100 yen he will send you back 200 counterfeit yen. This is how I have such a luxurious life style without working.” The next day, the kimono shop owner handed him 100 yen.

But after a few months when the money still hadn’t arrived, the shop owner pressed the man for the money. He replied, “The Genkai Channel is too rough to sail at this time. Please be patient a little while longer.” Finally the kimono shop owner could no longer pretend to himself, he had to admit that he had been swindled out of 100 yen! He knew he couldn’t go to the police because he, himself had been involved in the crime.

The man was eventually arrested for swindling and he went to prison for a long time. However this was not the end of the story.

By the time he got out of the prison he was an old man. Soon after his release he became blind. The man seemed to have given up his life of crime and he sometimes had a visitor. One day he said to his visitor, “I have done a lot of wicked things in my life and have cheated many people, but from now on I am going to spend the rest of my life peacefully.” He groped around in his closet and came out holding several gold bars. He then said, “These are the last of my ill gotten gains and since I have no way to make a living, I will have to part with them. Would you buy them for whatever price you think they’re worth?”

The visitor was extremely pleased with himself until which time he found that they weren’t pure gold bars but gold plated lead bars. Of course the man was arrested but the police found that he had committed no crime. When the police questioned him the man replied, “I never said it was gold, just that it was all I had left from my previous life of crime.”

 テレビが我が家に入ったのは私が小学校4年か5年の頃なので、それまでは子供たちは父の話を楽しみに 聞いたものでした。   上の話は、祖父から実話として語り継がれて来たものですが、今となっては、どこまでが事実で、どこが脚色されてい るのか知る由もありません。 ただ、少なくとも登場人物はウー・ピン氏以外は全て実在した人たちです。80年も昔の話であるため、当事者は全てずっと昔に故人に なられているので、公開しても差し支えないと判断いたしました。

 祖父は、時計貴金属の他、その時代の先端の物はほとんど何でも取り扱いました。”ラヂオ”(当時はそう綴った)も取り扱い、納品に行くと地域の人たちが大勢集まったと聞いています。 寒い冬でも、電波が良く入るようにと、その家の人は障子を開け、「中に小人が入っとるだらあか?」と言う見物客あり、また雑音が 入ると「これはアンテナに雲がこすれる音だで。」と言う者もいたそうです。

これは、そんな時代に実際にあったお話です。   当時、祖父は蓄音機やレコードも扱っており、そのお客の中に、一人の初老の紳士がいました。 新しいレコードが出ると、その紳士は決まって昼前に電話を入れ、配達を依頼するのでした。 店の奉公人が配達に行くと、 レコードをかけさせ、しばし目をつむって耳を傾け、頷くと、いつも値切ることなく現金を支払い、時計を見ると、「ああ、もう昼だね。 食事をして行きなさい。」と言い、その幸運な奉公人は豪華な食事を振る舞われるのでした。だから、その紳士への配達は奉公人たちの間でいつも奪い合いに なっていました。

  近所の呉服屋さんも同様の恩恵に与っていたそうで、そこのご主人はその紳士の人柄に惚れ込んでいました。 ある日、その呉服屋の主人は思い切ってその紳士に聞きました。「よろしければ、お仕事をお聞きしても良いですか。」

  すると、しばらくの沈黙の後、その紳士は押入から十円札の大きな札束を出し、中から1枚抜き取ると、それに火を付けたのです。 それが半分ほど燃えたところで、慌てることなく火を消しながら言いました。「これは偽札だが、非常に良く出来ていて、まだ一度も見破られた ことはない。嘘だと思ったら、この燃えさしを銀行に持って行ってみなさい。」

  言われた通りに、その呉服屋さんがそれを銀行に持っていくと、行員は全く疑うこともなく新札と交換してくれました。 呉服屋さんがその新札を手に紳士の所に戻ると、その紳士は言いました。 「この偽札は、朝鮮でウー・ピンという者が作っていて、百円を渡すと、その偽札を二百円くれるのだ。私が働きもせず、こうした 暮らしがしておれるのも、これのお陰だ。」

  完全に信用してしまった呉服屋の主人は、翌日その紳士に百円を渡しました。  しかし、2ヶ月経っても、3ヶ月経ってもお金は返りませんでした。 痺れを切らした主人が催促すると、その紳士は その度に「今、玄界灘が荒れていて、船が出せないので、もうしばらく待ってくれ。」と言うばかりでした。   そうして、その主人はやっと騙されたことに気付いたのでした。

  やがてその紳士は警察に捕まりました。 そして長い刑務所生活から戻ると、もう老人になっていました。 そして出所後間もなく、 失明してしまいます。 しかし、話はこれで終わりではありません。

  その紳士には、もって生まれた魅力があったようで、失明しても、人が自然に彼を訪問するようになりました。 彼は訪問者の一人に言いました。「わしも長い間、人を騙して来たが、こうして明かりも失った今、余生は平穏に暮らしたいと 願っている。これは、最後まで持っていようと大切にしていた物だが、生活のためには手放さざるを得ん。」と言いながら、 手探りで押入から何かを取り出しました。
 それは金色に輝く数本の延べ棒でした。「いくらでも良いから、あんたが思う値段で買い取って くださらんか。」と言われた訪問者はにんまりとしながらそれを言い値で買い取りました。 ところが、それは鉛に金メッキをした 物でした。

  その盲目の紳士は警察の尋問に答えて言いました。  「わしは、これが金だとは一言も言っておらん。ただ、長い間大切にして来た物だと言っただけじゃ。」    確か、この件についてはこの紳士にお咎めはなしだったと聞いています。^^;

80年も昔、テレビも無い頃、しかも大都会ではなく、地方都市で、何ともあざやかな詐欺事件ではありませんか。^^;

Folding Wheel Chair / 折り畳み式車椅子

(In English; 6/16, 2014)

Folding Wheel Chair

I would like to share with you an unforgettable experience in my work.

It was seven or eight years ago when I received a phone call from the first customer asking “Do you have an “EMS-L” in stock? I would like to buy it at your shop and take it home.” And he asked in the end, “Is your shop on the ground floor? And can I get into your shop in the wheel chair?”
I simply thought at that time he had a wound on his leg or something.

A few days later, a car stopped in front of my shop. I immediately thought it must be he, and went up to the side of the car to find I was right. Alas!! he drove all the way from Kobe in the specialized car with his hands only!

Then I guided his car to my parking space, and I will see what I am really amazed by. The guy stopped his car at the right place and then fully reclined his back rest by 180 degrees and leaned back to seize a folded wheel chair on the rear seat and lifted it to put on the ground just by the opened car door and quickly unfolded the wheel chair just like an umbrella. Then he bundled his legs by a towel and he took his legs just as if they were a luggage and into the wheel chair, and he finally got into the wheel chair all by himself.
What I did was only to take his FS102 Telescope in the case and accompanied him in the wheel chair to my shop.

In my shop, he set up the telescope on the tripod at the lower position with my assistance, and he attached the EMS-L to his telescope and watched the upright and vivid image of the nearby landscape for a while, and saying ” It is nice!!.”, he finally decided to buy it.
Having a pleasant conversations after that, and I can never forget his last word he murmured with a sigh ,”I was right to come!”

It was just after the Hanshin-Awaji Earthquake, and I thought he was the victim of it, but he wasn’t. He told me he had a car accident before the catastrophe and he was on the hard rehabilitation in the hospital when he met the earthquake. He was paralyzed from the chest down and I knew he had gone through unimaginable despair and painful rehabilitations.

Since then I take this story to my heart to keep up my motivation ever to proceed.

ずっと前からお話したいと思いながら、きっかけを逃して来た話をご紹介します。

もう7,8年前になりましょうか。 私の店に次のような電話が入りました。
「EMS-Lを店頭で確認して求めたいのですが、現物はありますか。」という問い合わせでした。
最後に、「店は1階にありますか。車椅子で入れますか。」と聞かれましたので、問題ない旨をお伝えしました。   その時は、脚に怪我でもされたのかな、と思っていました。

数日後、店の前に1台の車が止まりました。 直ぐにあの電話の方であると直感し、店を出て車の前に立つと、 やはりその方でした。 何と、その方は、神戸から特別仕様車をたった一人で、手だけで運転して見えたのでした。

そのまま私はその方を裏の駐車場に導きましたが、私が本当に驚いたのは、その後のことなのです。  その方は、車を止めると、自分のシートを180度倒し、反り返って後部座席に置いていた折り畳み式の車椅子を腕の力だけで持ち上げると、 運転席の直ぐ外にそれを組立て、あれよあれよと言う間に自分の両脚をタオルで縛り、まず両脚を荷物のごとく先に車椅子に納め、 完全に自力で車椅子に乗り込まれたのです。 私がした事と言えば、この方の自作のケースに納まったFS102鏡筒を持って店までお供をした だけでした。

店では、私も手伝って低いポジションにFS102鏡筒をセットし(確かカメラ三脚を使用した)、EMS-Lを装着され、ウィンドウ越しの景色で合焦や 見え味を確認され、大きくうなづいて購入を決断されました。 それからしばらく歓談して、帰り際に、「来てみて良かった。」と しみじみとため息のように言われた言葉が忘れられません。

阪神淡路大震災の直後でしたので、被災によるお怪我かと思い、お聞きしてみたら、その前に交通事故に遭われたのだそうで、 震災は、病院の中で闘病中だったとのことでした。胸から下が全て麻痺されたこと、想像を絶する体と心のリハビリがあったっことを知りました。

以来、何かと理由を付けて行動を保留し勝ちな、私自身への戒めとして、私はこの方の事を心に深く刻んでいるのです。

悪役俳優、Bolo

昨晩、久しぶりに”燃えよドラゴン(Bruce Lee 主演)”がテレビで放映されました。
悪役で登場したBoloの若い姿が懐かしく、彼との希有な出会いを思い出しました。

写真は、1989年に鳥取市で開催されたボディビルアジア選手権のお別れレセプションで撮影されたものです。   鳥取市への同選手権の誘致は、実質上の主催者兼、選手であった小山裕史(やすし)氏(アジアチャンピオン)の世界的な 知名度と並外れた努力と、ボランティアの協力で実現したものです。(同年開催の世界おもちゃ博覧会との関連で市の後援が得られたのも幸運でした)   当時氏のジムのメンバーであった私も通信文の英訳(当時はFAX)や通訳で協力しましたが、大阪空港で各国の選手団を出迎えた ことが、今でも鮮明に思い出されます。

数台のチャーターバスに各国の選手団を乗せるのですが、予算の関係で1国1台というわけには行かず、到着時間が大きく異なる 二国のチームを1台のバスで送るのに、大変な苦労をしました。 (韓国選手団の遅れでイラクの選手団を3時間待たせないといけないはめになった 話は別の機会にします。)

イラクと韓国のチームをやっとの思いでバスに乗せ、これに乗ってやっと一緒に鳥取に帰れると思いきや、 本部からの指令で、私はその後に到着する台湾とパキスタンの選手を乗せて帰ることになったのです。

台湾とパキスタンの選手団をバスに乗せると、緊張がやっとほぐれ、最後部で隣に座っていたパキスタンのヘビー級の選手とずっと歓談 して帰りました。 その時、台湾チームの中に私たちの会話の魚になった人が一人いたのです。

私    : 「Bruce Leeの”燃えよドラゴン”(Enter the Dragon)を見たことがあるかい?」
パキスタンの選手:「あるけど・・・?」
私    : 「あの人、あの悪役に似ていない?」
パキスタンの選手: 「本当だ、そっくりだ!」

といった具合で、互いの膝を叩き合って大いに笑ったのです。

その話題の主は、台湾のチームリーダーの一人でしたが、喋らず、笑わず、闘争的な体型に乗った牛のごとき首には太い金のネックレスが 巻いていました。 ただならぬ殺気を感じ、まさに”歩く凶器”の印象でした。^^;

それが本物だったことが分かったのは後日のことでした。 本物と分かってからも、しゃべらないし、名刺もくれないし、写真も撮られたくなさそうな雰囲気で、全く取り付く島もない 感じで、結局、香港の俳優だと思っていた彼がどうして台湾のチームリーダーだったのか等も聞けず終いでした。   上は、「絶対に笑わせて見せるから、見てなよ。」と同僚のボランティアスタッフに言って、撮らせた写真です。彼が最初にして最後に見せた笑顔です。    ともかく、地で行く華麗な悪役俳優でした。名刺はくれなかったけど、ボランティアスタッフ用の私の赤い法被の背中に、 大きな字で”BOLO”と書いてくれました。

ともかく、地で行く華麗な悪役俳優でした。

(写真を勝手に掲載したので、殺しに来るかな?)

Red- Green Test

RG rays in the eye

Red-Green chart

私たちの眼は、生体として、光学器械が真似の出来ない 生理的な機能を備えていることは事実ですが、純粋に光学的に評価しますと、 高級品ではないことを認めざるを得ません。

眼科での眼底写真の撮影等のために、散瞳剤(瞳を広げる薬)を点眼されて、しばらく苦労された経験がおありの 方も多いと思いますが、私たちの眼は、絞り開放では、まったく使い物にならないほどの甚大な 球面収差を持っています。

また、色収差も甚だしく、この性質を利用すると、眼の微妙なピントのずれを比較的客観的に 検知することが出来るのです。

上のレッドグリーン指標でご自身の眼を試してみてください。(まずは単眼で検査した方が分かりやすいでしょう。)黒い二重線が赤のバックと緑のバックで比べて、 どちらがはっきりと見えるでしょう。輝度やコントラストの差に幻惑されないように、線(隙間)のシャープネスだけに着目します。 両方とも大きくぼかしてしまうと、区別が出来なくなります。

また、特に初めての方は、ピントの前後をセットにして、レッドとグリーンのシャープネスが逆転する様子を見ないと分かりにくいかも知れません。 近視のメガネを掛けている方は、メガネを外し、遠点(はっきり見える一番遠い距離)付近でチャートに微妙に近付いたり離れたりして見ると レッドとグリーンの見え方(シャープネス)が逆転するのが分かるでしょう。

読書距離で見て、明らかにグリーンの方がはっきり見えたら、老視の赤信号^^;です。 (近視の方は、メガネを掛けて見てください。)
指標を拡大して3m以上離れて見た時に 赤い方がはっきり見えたら近視です。 また、読書距離で両方ともはっきり見える方でも、距離を近付けて行きますと、調節限界付近 からグリーンの方がレッドよりもはっきり見えるようになります。
また、3m以上離れて見てグリーンの方が極端にはっきり見える方は、近視のメガネの度が強すぎるか、遠視である可能性があります。
横線(縦線)だけがはっきり見えたら、乱視の疑いがあります。

波長の長いレッドは波長の短いグリーンよりも焦点距離が長いので、それぞれの結像位置が微妙に異なることが、この検査を 成り立たせている理由です。(上の図は、弱度近視の状態です。)

眼の屈折に関与する角膜、房水、水晶体、硝子体の組み合わせは、残念ながら色収差の軽減に対する(神様の^^;)配慮は全く見られません。 もっとも、明るい所では縮瞳(瞳が小さくなること)して極めて小口径であり、散瞳するのは暗い時で、眼の視力も落ち、色盲になっている(低照度下で活躍する旱状体視細胞は色盲) ので、アポは必要なしとのことなのでしょう。

マリオット氏盲点

双眼視の効果は議論する余地がないほどのものと思っていましたので、あまり具体的にコメントした 記憶がありません。 しかし、双眼視の効果が大分認識されるようになった昨今でも、やはり認識に温度差が あるようなので、今日は敢えてコメントしてみることにしました。

今回はその中でも、意外に知られていない単眼の視野についてご説明します。  上の写真は右眼で、見掛け視界60度のアイピースで見た地上風景です。視野中心から右に約 15度の所に浮かぶ黒い楕円は何でしょう? 黒い風船ではありません。あなたが右眼単眼でアイピースを覗いている時、 ほぼこの黒楕円の範囲は何も見えていないのです。

この盲点のことを”マリオット氏盲点”と言うのです。横幅で5度、縦幅で6度以上あるでしょう。これは、眼底の視神経乳頭 に当たる部分で、網膜の視細胞の一つを、眼底のお椀の表面に配置した光ファイバー1本の端面に例えると、全てのファイバーを束ねて お椀(眼球)の外に取り出す穴だと考えることが出来ます。

上の画像は、60度の視野を想定していますので、実際の角度をシミュレートするには ずっと大きな画像が必要で、例えば55cmくらい離れたモニター上では、盲点の領域(画像の黒楕円)は2インチのバレル径くらいの面積に相当することになります。   この盲点は、かなりの面積で、20mも離れれば、自動車が1台すっぽり入りそうな大きさです。

描画ソフトを使うと、自分の盲点を正確に描画することが出来ます。モニターの中央より少し左寄りに固視点になるような目印を 描き、左目を遮蔽し、右眼でその固視点から眼を離さないようにしながら、カーソルを少し揺らしながら固視点から右の方に 移動させて行きます。カーソルが消えた時点で直線を引き始め、カーソルが出始めたら引き終えます。その作業を異なる高さで 繰り返すと、自分の眼の盲点の領域が作図出来るわけです。(50cmも離れますと、盲点はモニターの右端に近い方に来るでしょう。)  説明のために黒い楕円で示しましたが、盲点というのはそこに視細胞そのものが無い所ですから、黒い点とも、白い点とも 認識されるわけではありません。上の画像では、アンテナの背景の空に溶け込んでいて、盲点は本人にはほとんど認識できません。  また、認識できないが故に”盲点”であるとも言えるのです。
潜在的に見る能力がある部分を遮蔽されて初めて黒点として認識 できる訳です。この事は、単なる理科的な興味だけではなく、私たちの認識の仕方の原点を鋭くえぐる、深い示唆に富んだ現象だと 思われませんか。 老人が、「わしゃ大分ボケてしまったわい。」と嘆いている間は惚けていず、「わしゃボケとらんわい!」と怒りだしたら ボケているのと似ていますね。^^;

左眼だと、ちょうど対称的な位置に盲点が来ます。両眼視で初めて盲点が無くなる訳ですね。うまく出来ているものです。

双眼視によるコンポジット効果で眼の解像度や視野の明るさが飛躍的に増すことを議論する以前の決定的な問題として、 この盲点があるのです。

T先生

小学校の3年生まで、担任は女の先生が1年ごとに交代した。
当時の私は、生意気だったのか、女の先生のお遊技的スタンスが嫌でならず、先生の指導と うまく噛み合わなかった。もっとも、私は授業を妨害するような生徒ではなかったが、正直に言って、幸せな低学年を送った記憶がない。

?年生の時に、リズムに合わせた足踏みがうまく出来ず、皆の前で悪い見本でやらされ、先生に、
「まるで芝居の馬の足だ。」
と言われ、級友の喝采?を浴びた。

先日、その女先生が数年ぶりに見えたら、数年前に肺癌で肺の大半を切除しておられ た。早期発見で転移が無かったとのことで、外観は非常にお元気そうだった。
帰られる時に、 私のテレビ番組(夢をつむぐ人々)のビデオを渡した。

それから10日ほど経った今日、先生が見終えたビデオテープにお祝いの祝儀袋を添えて返しに来てくださった。   両親にも、同じ小学校に世話になった、一昨年に他界した姉へのお供えにお悔やみの手紙を添付してくださった。
ビデオの件は、先生は大変喜び、心から賞賛してくれた。 以前から”たっちゃん”と呼んでくださり、お客さんになっていただいていたので、小学校時代のわだかまりは すでに消えていたが、(お祝いをいただいて言うのではないが^^;)、この度改めて先生のありがたさを知った。

先生についての想い出に、二つの強烈なシーンが浮かぶ。

一つは、先生の豊満な”オッパイ”だ。山に遠足に行った日、気の合った友達同士で昼食を取りながら、 先生の姿が見えないのに気付いた。 2,3人の級友と一緒に先生を捜していたら、山道から外れた人目につかない所で、 先生がしゃがんでオッパイを出していた。吸引器のような物で白いお乳を吸い出しておられ、皆、目が点になった。   先生は慌てることもなく、
「オッパイが張るけえ、こうして吸いださんといけんだが。恥ずかしいけえ、誰にも言ったらいけんで。」
と言いながら、その作業?を続け、私たちは最後までそれを見届けた。   先生は、その年、幼い子供さんを交通事故で亡くされていた。 その時は聞いたはずだと思うのだが、印象に残っていなかった。

もう一つ、鮮烈に浮かぶシーンは、ガキ大将の生徒が先生に突き飛ばされているところだ。背丈は小柄な先生に匹敵する悪ガキが、 「かかって来い!」と言う先生に泣き震いで突進するが、何度突進しても先生にはかなわない。

まさに体当たりの先生だった。 多くの親が自分の子供を育てるだけで顎を出している昨今だが、多くの人の子を育てて来た先生の偉大さを今さらながら 知らされた。

斜位矯正

新年、明けましておめでとうございます。 今年の年賀は年内に書くことが出来ず、いただいた分から返信させていただいています。  失礼の段、お許しください。(店頭のお客様用の2000枚は年内に発送したのですが・・・)

さて、今日は昨年末に斜位矯正をして非常に喜ばれた例をご紹介します。

斜位矯正

一般には、メガネは視力を補正する道具だと思われていますが、それだけではありません。
年末に相談に見えた中年男性は、数十年来複視(二重像)に悩まされ、これまでにあらゆる医療機関やメガネ店にかかったが 問題は解決せず、諦めており、運転免許はもとより、職業さえ制限を余儀なくされていました。

私が検眼してみますと、かなり深刻な斜位、というより斜視と言った方が良いほどの眼位の異常がありました。 しかも、ずれは上下方向と水平方向にまたがり、それらをベクトル的に合成して矯正に要したプリズムは片方で5pd(プリズムディオプトリー(1mにつき、 5cmのずれ))に達していました。
プリズム矯正の実用的限界に近い度数でしたが、この方の二重像は直ちに解消し、感激していただいた次第です。

この方の例は極端ですが、明確な自覚につながらない場合でも、斜位を持つ方は多く、未熟な検査の網をくぐっているはずです。 遠視も誤解されているものの代表で、これも「メガネは視力を補正するもの」という短絡的な認識からは到底理解が及ばないようです。 とくに若年者ほど遠視は自覚されにくく、本人が納得しない場合は、症状が顕在化するまで放っておくしかありません。  ただ、正視眼の人が3時間集中できる近業が2時間、あるいは1時間でダウンすることも起こりうる訳で、ある意味では人の一生をも左右しかねない 問題なのですが。
視機能の発達途上の幼児の強度の遠視を放置すると、調節と輻輳のアンバランスから斜視になり、複視を回避するために 脳が効き目でない方の眼の情報を遮断するので、その眼は廃用性の弱視になり、成長後にレンズでの矯正を試みても視力が補正できなくなるのです。
年末に見えた方は、矯正視力が左右共0.3くらいあり、完全に弱視化していなかったので、成長期後に発症したものと思われますが、  逆に片方の眼(効き目でない方)が弱視化していなかっただけに、そのつらさも相当なものだったと思われます。

斜位矯正

新年、明けましておめでとうございます。 今年の年賀は年内に書くことが出来ず、いただいた分から返信させていただいています。  失礼の段、お許しください。(店頭のお客様用の2000枚は年内に発送したのですが・・・)

さて、今日は昨年末に斜位矯正をして非常に喜ばれた例をご紹介します。

斜位矯正

一般には、メガネは視力を補正する道具だと思われていますが、それだけではありません。
年末に相談に見えた中年男性は、数十年来複視(二重像)に悩まされ、これまでにあらゆる医療機関やメガネ店にかかったが 問題は解決せず、諦めており、運転免許はもとより、職業さえ制限を余儀なくされていました。

私が検眼してみますと、かなり深刻な斜位、というより斜視と言った方が良いほどの眼位の異常がありました。 しかも、ずれは上下方向と水平方向にまたがり、それらをベクトル的に合成して矯正に要したプリズムは片方で5pd(プリズムディオプトリー(1mにつき、 5cmのずれ))に達していました。
プリズム矯正の実用的限界に近い度数でしたが、この方の二重像は直ちに解消し、感激していただいた次第です。

この方の例は極端ですが、明確な自覚につながらない場合でも、斜位を持つ方は多く、未熟な検査の網をくぐっているはずです。 遠視も誤解されているものの代表で、これも「メガネは視力を補正するもの」という短絡的な認識からは到底理解が及ばないようです。 とくに若年者ほど遠視は自覚されにくく、本人が納得しない場合は、症状が顕在化するまで放っておくしかありません。  ただ、正視眼の人が3時間集中できる近業が2時間、あるいは1時間でダウンすることも起こりうる訳で、ある意味では人の一生をも左右しかねない 問題なのですが。
視機能の発達途上の幼児の強度の遠視を放置すると、調節と輻輳のアンバランスから斜視になり、複視を回避するために 脳が効き目でない方の眼の情報を遮断するので、その眼は廃用性の弱視になり、成長後にレンズでの矯正を試みても視力が補正できなくなるのです。
年末に見えた方は、矯正視力が左右共0.3くらいあり、完全に弱視化していなかったので、成長期後に発症したものと思われますが、  逆に片方の眼(効き目でない方)が弱視化していなかっただけに、そのつらさも相当なものだったと思われます。

Gon

ウチの愛猫”ゴン”です。家内が独身時代から飼っていた猫で、17歳を越えます。
ゴンを題材にして娘のスピーチコンテストの原稿を書いてみました。

Gon, my cat is more a member of our family than just a pet. We have lived together for as long as I can remember. When I was a little girl, she was not only a good friend but also an older sister to me because I am an only child.

I don’t know when our roles changed exactly but she has come to love and rely on me, just as if I were her mother, even though she’s four years older than I. Every time I come home from school, she comes to greet me from wherever she was sleeping in the house. She doesn’t want anything from me, except to be picked up and scratched on the back while cuddling her on my lap.

Though she can’t speak, she can express herself and I can always understand her feelings by the way she meows. Especially when she is “purrfectly” happy and content.

She’s 17 cat years old, which is the equivalent to 80 or more human years. She’s not as fast as she used to be, but she’s still very agile. She can jump up on the chair next to mine when she wants to be petted. Now just imagine an 80-year-old woman jumping as high as her own height, that’s a pretty amazing thing to do, don’t you think?

When I study late into the night or when I’m sick she watches me and never leaves my side.

This is why she is so special to me. What an amazing creature!

You’re probably wondering why “she” is called” Gon”. Well, my mother was still living with her family, when one day one of her piano students gave her the cutest little kitten. My mom’s younger sister mischievously named her”Gonzaemon” which happens to be an old fashion name for a male cat in Japan, and since then she’s been known as “Gon”! Gon gave birth to several kittens, and my mother chose the most handsome kitten and named him”Leo” and gave the rest away.

Soon after that my mom decided to marry my dad and she thought it would be too much to ask him if she could bring two cats with her into their new home. So she decided to leave Gon and her son with her parents in Shimane Prefecture.

However after a few months, she told my dad how much she missed her cats and how worried she was about them because her parents really didn’t like animals all that much. My dad immediately understood her feelings and they drove 5 hours one way just to pick up the cats!

Leo was no longer there but Gon was and my mother remembers that it was like she had been waiting for her to come back to take her home.

Her new life with my parents was about to be disrupted again, though. A little more than a year after she came to live with them, my parents were expecting me. Just a few months before I was born my mom became very anxious about whether or not a cat was a good thing to have around a new baby so Gon was sent to live with my aunt.

Gon finally came back to live with us after I became a year old. We haven’t been separated since then and never will be again. I still feel a bit guilty for what she went through because of me and I intend to stay by her side and make her last years, her best years.

EMS used on Newtonians / EMSのニュートン反射への応用

仰角切り換え型 ニュートン反射式双眼望遠鏡

EMSは、そのフレキシブルな像回転と仰角調整の機能により、シーフを含むあらゆる光学系の正立系となり得ますが、 今回は、ニュートン式の反射望遠鏡への応用例の一つを発表させていただきます。

側面図のように、EMSをバズーカ砲のように折り返して使うと、目標に対して対面視で正立像が得られます。(上図は、双眼にした時、対面視での右眼鏡筒、 あるいは逆視での左眼鏡筒を示しています。鏡対称で図を複製して補えば双眼鏡筒になります。)
これは4回(偶数回)反射の正対面視なので、主鏡の光軸の回りに全系あるいは筒先系を回転させても像が回転しません。 つまり、この使用法では、鏡筒接眼部(EMSなしの時の光束の出口;以下説明略)の位置角が自由なので、 まず、EMSの第1ユニットを反射する主光線Bが垂直面内に属すように鏡筒の接眼部の位置角を設定します。 この時、水平位置に対しての鏡筒接眼部の下向き勾配が√2:1となります。

次に、この状態からEMSの第2ユニット(アイピースと一緒に)を主光線Bを軸として 180度回転させると、第2ユニットからの主光線Cは、主光線Aにシフトします。
正面図でこの状態を示しました。
A位置は、逆視用の位置とも言えますが、 120度対空の位置でもあり、像はCの状態から第2ユニットの射出面を基準にして180度回転しますが、観察者も180度向きを変えて観察します ので、これも正立像であることが分かります。
逆視系で背後を観察する事は、対空型の望遠鏡で天頂オーバーを観察することであり、正立像の望遠鏡を天頂 オーバーに向ければ、私たちが反り返って天頂より後ろを見ているのと同じで、像が一見逆さまに見えるのが正常なのです。

一方、EMSをそのままの形で180度逆視(目標に背を向ける)用に取り付けると、4回(偶数回)反射の逆視なので、 全系あるいは筒先系の主鏡の光軸の回りの回転によって像は回転角の2倍の角度で回転します。 これで双眼視が可能になるのは、 左右の鏡筒の接眼部が同軸で対面するように鏡筒を固定した時のみで、望遠鏡の規模が大きく なるほど、天頂付近の観察姿勢に無理が生じます。
さらに、その時の像は一見正立像に見えますが、 前記の対面視での正立像のような正常な立体視は得られず、立体感が遠近逆になってしまいます。これは、逆視をすることで左右の眼と左右の鏡筒が 入れ替わっているからで、また、視点を変えて敢えて天頂を越えて対面視で観察しますと、逆視で正立像だと信じていた像が、実際には 倒立像であったことが理解できます。この状態で、望遠鏡をパンすると、像が逆向きに逃げるので、その事からも、逆視では見かけ上の正立像が実は倒立像 であることが分かります。

つまり、上図のようなC,Aの仰角切り換えタイプでは、どちらのポジションでどの方向に望遠鏡をパンしても 像の動きが矛盾しない正立像と正常な立体視が得られることになります。対象の高度角の45度付近を境として、対面視と 逆視(または120度対空視)を選ぶことで、常に快適な観察姿勢を得ることが出来ます。

(屈折式と逆に、仰角が増すにつれて接眼部の位置が高く なるので、Cのポジションでも高度角60度くらいまでは楽に観察できることが予想されます。)

補足事項:

2枚の小さい方形のミラーを用意し、ブック型に保持し、その角度を直角から少しずつ鋭角にして自分の眼の 2回、3回、4回反射の逆視像を作り、ミラーの全系を視線の回りに回転させた時の像の回転の様子を観察してみることをお勧めします。
奇数回反射では裏像になっていることの他、逆視の奇数回反射では像が回転しないこと、偶数回はその逆であることが ご理解いただけるはずです。正対面視の場合は、全くその逆で、市販の手持ちの双眼鏡の折り畳み式の眼幅調整の根拠になっています。


あとがき

EMSの応用性の広さについては、未だに十分にご理解いただいていない 印象が強く、この度、試作品の製作を待たずにその一例を発表させていただくことにいたしました。
上記は、ほとんど無限の可能性を秘めたEMSの応用のほんの一例に過ぎず、その変形タイプまで含めるとEMSにはまだまだ優れた応用が山ほどあり、試作をする時間が無いことが歯痒くてなりません。
(図は慌てて描いたもので、無駄な補助線の消し忘れがあり、お見苦しい点があることをお詫びします。)
(2002年9月30日)