Holocaust Bombings /(原爆投下の目的)

Last week, US media reported the death of Theodore Van Kirk, the last surviving crewman of the Enola Gay, who passed away aged 93. A funeral was reportedly scheduled for August 5 in his hometown of Northumberland, Pennsylvania, which would coincide with the Hiroshima anniversary in Japan.

An American B-29 bomber named Enola Gay dropped an atomic bomb on Hiroshima on August 6, 1945, in one of the final chapters of World War ll. It had killed an estimated 140,000 by December that year.

Three days later, the port city of Nagasaki was also bombed, killing an estimated 70,000 people.

Most of the Americans must have taught that the twin A-bomb attacks brought a speedier end to the war by forcing Japan’s surrender and preventing many more casualties in a planned land invasion.

But the later neutral investigations have been revealing the true purposes of the twin A- bombings as the following.

1: Experiment of the two kinds of A-bombs.
2: To hold a dominant position over Soviet Union after the War.

The reality is that the US did not want to end World War ll until it drops two kinds of A- bombs on Japan. And the main purposes were to observe the effects on the city infrastructures and especially on the human bodies. US did not have other choice less than two A-bombs, because they had developed two kinds, one is Uranium and the other, Plutonium.

Japan had already sent the sign to surrender months before the bombings, at least through Soviet Union. It was one day before the Potsdam Declaration,7/26, that Truman had ordered to drop the A- bombs on Japan.

And the way and time and place were carefully chosen to make the definite success on the unprecedented experiment on human bodies.

To see the pure effect of the A-bomb, Hiroshima was left from air raids until then. The bomber once pretended to go through the sky of Hiroshima and then abruptly turned back and finally dropped the A-bomb. It was just the timing of the air-raid alarm being called off for the first contact of the bomber. Many of the citizens were just got out of the steamy bomb shelters onto the roads, many of them might be shirtless out door.

Anyway it was at 8:15 on the morning of August 6, week day, that many citizens were busy on their way to the offices or schools.
It is not end of the story. Three parachutes were released in advance of exploding the bomb to attract as many eyes of innocent citizens staying outdoor. So, the strategy was a great success in gathering a great numbers of materials afterward for the A-bomb studies.

エノラゲイの最後の乗組員が先週亡くなったそうで、葬儀はまさに日本時間の8月6日に執り行われたそうです。  アメリカでは、彼はいわゆる War Hero であり、ネット上の写真では、棺をアメリカ国旗が覆っていました。

アメリカでは、「原爆投下が戦争の終結を早め、双方の犠牲を最小限に留めた・・・」と教えて来たようですが、 その後の中立的な検証の結果では、そうではなかったことがほぼ確実になりつつあるようです。

トルーマンが日本への原爆投下命令を出したのは、ポツダム宣言が発布された日の前日でしたし、ソ連の参戦が 確実となった段階で、すでに日本の降伏は明らかであり、戦争の終結のために原爆を投下することは必須ではありませんでした。

そして、何よりも問題なのは、原爆の投下が無通告で、かつ一般民衆への配慮が皆無、というか、どう見ても、故意に 生体実験をしたとしか思えない方法で履行されたことにあります。

当日の朝、B-29は、一旦広島の上空を何もしないで通過し、その段階で市内の警戒警報は解除されていました。 蒸し暑い防空壕から外に出た多くの市民は、シャツを脱ぎ、深呼吸をしていたことでしょう。 ところが、B-29はいきなり コースを変え、引き返して原爆を投下したのです。 さらにご丁寧なことに、3つのパラシュート降下物を事前に投下し、 戸外にいた多くの市民の視線を惹き付けていたそうです。 まさに、一体でも多い検体サンプル(やデータ)を採取 するために、周到な手段が講じられたということです。 爆発時刻は朝の8時15分、多くの大人は通勤中で、子供たちは学校に向かっていた時刻です。

さらに日本政府に降伏の決定と表明の時間的猶予を与えることなく、わずか3日後に長崎にも投下しています。 このことからも、ウラン235と プルトニウム239の2種類の原爆を実験することが当時のアメリカの最大の優先事項であったことが明らかです。

あれから69年の年月が経過し、被爆体験生存者が減る一方、重い口を開き始めた新たな証言者も増えて来ました。 そして、当時の日本の指導者層も、戦争の末期に当たり、自国民の命を守るよりも、自分たちのかくまいを優先していたことが明らかになりつつあるようです。 上層部は新型爆弾の投下を予測しながら、国民に事前に警鐘を鳴らすことをせず、爆撃機の飛来時にすら的確な警報は出されませんでした。

死者に鞭を打たないのが、日本人の美徳でもあるようですが、大方の責任当事者がすでに他界している今こそ、冷静な目線での当時の総括を急ぐべき時ではないでしょうか。 さもないと、世界のどこかで、また同じことを繰り返すことでしょう。

”友達”と”戦争”

The Blue Bird of Happiness /(幸せの青い鳥)

There seems to be a fairly good number of people who are not pleased with their eye-glasses.

Some portion of them have unhappy eyes of extreme anisomyopia with the dominant eye of unhappy choice, or other factors for which it is very difficult to prescript comfortable glasses; but what I am goning to tell now is about those who have no such extreme factors on their eyes but still, who are not pleased with their glasses even after buying so many glasses at as many optometlists or opticians, just as if they have been bar-hopping in search of the imaginary Blue Bird.

…..To be continued.

今日、これからお話することは、メガネに悩んでいる方にとって、極めて重要なことだと思います。 話をすっきりと組み立てるために、例外を最初から省き、敢えて断定的な言い方をしますことを、事前にお断りしておきます。
確かに、不幸にして、メガネでの矯正に無理があるような極端な不同視(左右の極端な度数差がある眼)等を持つ方も一定数ありますが、今回は、眼自体には著しい屈折上の欠陥はないにもかかわらず、 当人もしくはメガネの作り手側の不適切な判断が不幸を産んでしまっているケースが、あまりにも多いということをお伝えしたいと思います。

昨今の大手の全国チェーン店の、有名芸能人を使用した集中豪雨的なテレビ広告には視聴者の大半はすっかり洗脳されるようで、(ベッキー、いい加減にしろ!^^;) 当店のような零細個人商店には対抗するすべもなく、来客数は 減少の一途を辿っていますが、代わりに、「あらゆる医療機関やメガネ店を渡り歩いたが、満足できるメガネには一つも行き当たらなかった・・。」 と、当店の噂を最後の砦のように、辿り着かれるお客さんが時たま見え、私はその度に俄然張り切って腕を揮うわけです。

最近、外国人の方のメガネを作りましたが、出来上がったメガネを掛けていただいてすぐに、
「私は母国時代より今日まで20個くらいのメガネを作りましたが、こんなに最初から快適なメガネは初めてで、 本当に感動しました。 『新しいメガネには、しばらく慣らす期間が必要なもの』と理解していましたが、それが間違いだったことを初めて知りました。」
というコメントをいただき、眼鏡屋冥利に尽きる思いをしたところです。

眼は左右2つあるので、単純ではありませんが、ここで長々と専門的なことを書いても読み飛ばされると思うので省きます。
要するに、「良く見えるメガネと、掛けて快適なメガネは別だ。」ということです。 完全矯正値の9割の度数にしておけとか、8割にしておけとかいった 単純なものではありませんが、大事なのは、メガネを掛ける方の虚飾のない本音のニーズがどこにあるのか、ということを、本人がまず冷静に自問する ことが大切で、次にメガネ作りに関与するプロも、お客(患者)を決して無意識にでも誘導することなく、本音を的確に引き出して感じ取ることが大切なのです。

遠近両用(特に累進多焦点レンズ)を例に挙げますと、遠方視力と近方視力の両方を同時に欲張らないのが、度数選定のコツです。 自分のライフスタイルで、どちらを優先すべきかを冷静に考え、常に遠近の度数差が最小限になるように配慮することが大切です。 検者側は、被検者(お客/患者)を誘導するのではなく、本音を見抜かないと いけません。 検眼椅子に座らせられて視力表を見せられる異常心理下でば、どうしても、よりよく見える方の度数を選び勝ちです。 被検者が検者に流される だけでなく、検者も被検者によく流されます。 しかし、メガネが出来てから、「あなたがこの度数(強い方)が良いとおっしゃったでしょう?」 などと言うようでは、メガネ屋(眼科医)失格です。^^;

「”メガネ”がもともと嫌いだ。」という方が結構います。 実は、メガネもそうした方を嫌います。^^; 顔にかかる水を嫌う間は、良いスウィマーになれないのと同じです。しかし、今日の話の主旨は、顔にかかる水に慣れろ、というのではありません。

メガネが嫌いなら、嫌いな人に適した処方がありますよ、ということを言いたいわけです。 「わしゃあ、メガネを外すとほっとする。」と言う人が意外に多いのです。 「じゃあ、なぜメガネを掛けるのですか?」と問うと、 「掛けんと見えませんがなあー。」と返ります。

私がメガネが嫌いそうなお客さんによくする説明にこんなのがあります。 「ご飯が美味しい濃い味だったら、決して一生主食として食べ続けられませんよ。ほとんど味がないところが良いところなんです。 メガネも 一緒です。 完璧に見えなくても、生活に困らず、掛けていることを忘れて、そのまま顔を洗おうとしてしまったり、掛けているメガネを探すくらいの 方が良いのです。」

メガネが嫌いな人は、多分、次のように考えているのだろうと思うふしがあります。 「大嫌いなメガネを掛けてやるのだから、掛けた瞬間から、ばっちり見えないといけない。 裸眼と大差ない見え方なら、嫌いなメガネを掛ける 価値が無い。」 しかし、実際はそうではありません。 そうではないということを、テストレンズを仕組んだサンプル眼鏡を交えてじっくりと説明すると、 大方の人は理解してくれます。 外したくなるメガネよりも、掛けたくなるメガネの方が良いメガネだということ。 そしてそんなメガネが 可能だということを。

・・・つづく。

7月28日追記

何個メガネを作っても満足できない人には、二つのケースがあります。 一つは、不幸にしてろくでない眼鏡屋や眼科医としか出会えなかった人で、一定の割合でそうした例が あるようですが、これは業界の現状を考えれば不思議はありません。^^; しかし、今回のテーマはその場合ではなく、自分が空想した(あり得ない)理想のメガネを捜し続けている人、つまり、実在しない幸せの青い鳥を 求めて流浪している方に引導を渡すことです。

メガネレンズは、顔に装着するという事情から、むやみに複雑に重い光学系を構成するわけには行かないので、常に単レンズであり、諸収差の残存には最初から妥協する前提で成り立っているものです。 まず、メガネ装用者は、この点を肝に銘じておく必要があります。 ただ、幸いにして、左右の球面度数(非乱視の度数とご理解ください)が同じで、乱視の度数も軸も左右でほぼ等しい方は、 像の歪曲や変形、視線の移動によるプリズム効果等が左右で相対的に打ち消しあうために、簡素な単レンズ系であるメガネレンズでも、よほどの特異体質でない限り、慣れないようなことはまずないでしょう。

しかし、左右の度数差、乱視軸の不同等がある方と、遠近両用(とくに累進焦点メガネ)装用者は、メガネでの矯正に限界がある(つまり妥協すべき部分がある)ことを知らないと、いわゆる”青い鳥探求者”となり、多大な時間とお金を無駄にすることになるでしょう。

左右の度数差が極端な人は、例外を除き、屈折異常度の強い方の度数を、弱い方に歩み寄らせる形で、左右差を最小限にすることが、快適なメガネを実現するために必要です。 特に、度の強い方が利き目でない方は幸せで、その眼は相当ぼけていても、両眼視にはほとんど支障はありません。 逆に、左右差のまま完全矯正すると、メガネをかけた瞬間は良くても、時間が経つにつれて頭が痛くなったり するものです。 乱視の場合も、同じような考え方で妥協点を探ります。 多少の軸の左右差であれば、極力左右の乱視レンズの軸方向を一致させます。 その操作が不都合なほどに左右で方向がかけ離れている場合は、 時には乱視の矯正を諦める方が好結果につながることもあります。

累進レンズ(遠近両用)に対する、(幸せのために^^;)取るべき態度ですが、まず、累進レンズは、レンズメーカーが宣伝するように、「どの距離でも理想的にはっきり見えるメガネ」では決してないということです。 使い道具は全てそうですが、汎用器(複数の機能を持つ道具)は、単独の機能に着目すると、専用器に適うはずがないということです。

爪切りや鋏やナイフや栓抜き等が一体になった道具がありますが、それぞれの機能では、専用の道具にかなわないものの、キャンプ地や山での遭難時等では、それが命を 救うことすらあるでしょう。 汎用器は、汎用性そのものが目的な場合に携行してこそ、意義があるわけです。 自宅のキチンなら、それぞれの道具をきちんと整理して 置いておくのが正解でしょう。

累進焦点メガネもそれと同じで、遠用と近用(さらには中距離用)のメガネを頻繁に着脱交換するのが現実的でない場合に、ありがた味が出るわけです。 累進レンズ不適合の性格の方が異口同音に言われることに、「このメガネはぼける部分があります。」というのがあります。
一方、すんなりと累進レンズを使いこなす方は、 もともと不満がないので、こうしたネガティブな感想は全く出ないわけですが、多分、次のように理解しているはずです。 「このメガネは、(距離に応じて)はっきり見える部分がある。」 つまり、累進レンズをネガティブに見れば、遠方を基準にすると、近用部は遠方がぼける度数帯を構成し、 読書距離を基準にすると、遠用部は近くがぼける度数帯を構成し、同じメガネの枠内にそれぞれが邪魔な領域を占めることになるわけです。 一方、ポジティブに見れば、メガネの枠内のどこかには、必ず目標の距離に対応した領域が存在し、そこで見る限りはっきり見えるわけですから、「このメガネはよく見える部分が ある。」と言えるわけです。
「ぼける部分がある。」というのと、「はっきり見える部分がある。」というのは、ほぼ同じことを言っているようですが、 装用者の姿勢(捉えかた)で、評価は正反対に分かれるわけです。

・・・つづく。

Cataract / 白内障

There must be very few people these days who don’t know about surgery to remove cataracts.
Cataracts are clouding of the eye’s lens, and the prevalence increases after the age of 60. In other words, there is almost no one who is free from suffering from cataracts in our lifetimes.
But, we are very happy living in the era of cataract surgery that can be done easily and safely. You can restore the clarity of your eye lens to the very level of a new born baby just after a “15 minute” surgery, with no fear or pain. The eye’s cloudy natural lens is removed and replaced with a clear artificial lens implant, called an intraocular lens or IOL.
But, I would like to share my professional opinion with you before you decide to have cataract surgery. As you know, every lens has its own power which is also true for the IOL. It is up to you which one you choose from the various kinds of IOL available, Myopia (shortsightedness),Hyperopia(farsighted ness), or Emmetropia( the correct eye).
I am not going to argue with your decision should you choose emmetropia, but I must warn you that your new IOL will have a fixed focus and that emmetropia may not necessarily be the happiest or best choice for you.
The artificial lens will never bulge according to the distance when you stare at a close object or target, as the natural lens does. Therefore, you should review your lifestyle carefully before you decide which distance is best for you. If you consider it seriously, most of you will arrive at the conclusion that the optimum focus distance of between 2-meters and 50cm, rather than an infinite distance; which means a moderate Myopia lens is the right choice.
 白内障や眼内レンズのことを知らない方は少なくなりましたが、皆さん、”距離”についての認識が甘すぎて、術後に不便している方が非常に多いので、警鐘を鳴らしておきます。
 濁った水晶体を取り除いた所に挿入する眼内レンズも”レンズ”ですから、あらゆる度数が可能です。 つまり、白内障手術は、一生を通じて、好きな屈折力の眼に産まれ変われる、千載一遇のチャンスなわけです。 そうした極めて重大な決断が迫られる、手術直前の段階で、(一般的に)眼科医は(相手が老人なので、詳しい話は理解できないと思うのか?)さらっとしか明視距離のことに触れず、あれよあれよと言う間に手術を終えられた患者が後になって、自分のライフスタイルにそぐわない、新しい我が眼に困惑するわけです。
 眼内レンズは、生身の水晶体と違って、常に固定したままで、近業時に都合よく調節して(膨らんで)くれません。たとえば、無限遠に合わせてしまう(つまり正視)と、屋内では読書距離は当然ながら、それより遠いテレビの距離でもややボケて見えるわけです。 優先的に見たい距離は、個々のライフスタイルや生活環境、好みによって変わるので、手術前にはじっくりと自分のライフスタイルを見つめ直し、公約数的な明視可能距離を決定しておく必要があるのです。
 希望の明視距離を数字で担当医に指示しない場合は、概して正視に近い眼内レンズを入れられることが多いようですが、上記を真剣に検討すれば、大体1.5m~0.5mくらいの間に答があるはずです( 近視度に換算すると、-0.75D ~ -2.0D くらいの弱度近視 )。
 先日、(女性の)画家の方に(手術前の)相談を受け、「50cmでやってもらってください。」とご指示し、結果、大変喜んでいただきました。(担当医師は、「本当にそんなに近くして大丈夫か?」と、何回も念を押したそうです。^^;)
 まあ、どの距離を選択したとしても、術後の眼は調節力を失っている(究極の老眼)わけですから、全ての距離に対応するには、遠近両用メガネ等が必用になります。
ただ、裸眼の時にどの距離が見えたら一番便利か?ということを真剣に考えておくことが重要だということです。
判断基準は他にもあるでしょう。 メガネが使えない極限状態を想定したサバイバルを重視したり、女性の場合は、裸眼で鏡を見てお化粧できることも重要です。
また術前の眼の屈折状態(近視,正視,遠視)も考慮する必要があります。元が遠視だった場合は近視度が強くなったら遠方視力に不満を持つでしょうし、元が強度近視だったら、裸眼で読書距離が完璧に見えた方が良いでしょう。
眼に関する他の日記

ある日の「医師当直日誌」より(I さん筆)

先週、外来に出ている時、二六歳の青年が診察を受けに来た。一年前から胸痛、 動悸、喉頭狭窄感等の症状があり、近くの病院にかかっていたという。父の交通事故死 などのショックもあり、会社もほとんど休みがちであった。病院でいろいろ精査したが 特別の異常もなく「精神的なものでしょう」と言われ精神安定剤等の投与を受けていた。 診察してみて確かに不安神経症的な病であろうと思われた。カルテの住所を見るとH市で ある。勤務先も確かK市で盛岡と関係ない。「どうして当院へいらしたのですか」と訊く と、県立中央病院時代の私のことを聞いて来たのだという。私はすっかり感激してしま った。医師冥利に尽きるとはこのことである。患者さんは有難いものだとつくづく思った。 H市から医大や県立中央病院へ行くのでなく、そこを素通りしてはるばるこの盛岡の外れの地 まで来てくれる……。その患者の心を想い責任の重さを痛感しないわけにはいかなかった。
その晩、県立中央病院時代のことをあれこれ考えた。当時の受持患者は今の四分の一 以下。検査や外来で忙しかったが、患者と話す時間も結構多くとれた。心身症のよう な患者もいて、ベッドサイドに腰掛けて話し込んだり、家族や職場の上司と面談した りしたものだ。入院している高校生の勉強がおくれるのが気の毒で数学を教えたりも した。確かに「手のかかる」患者達で、努力が実を結ばないこともあったが、無駄な 苦労をさせられたという感じはない。彼等は私に医師としての道を指し示してくれ たという想いが強い。
初心忘るるべからず
私を訪ねて来てくれた青年の顔を思い浮べながら、改めてそのことを肝に銘じた次第。

(1987年8月3日)

日誌に書いた二六歳の青年Aさんは、その後もキチンと二週おきに通って来てくれ ている。漢方薬が効いたのか症状も軽くなり、会社にも行けるようになった。 「胸が苦しくったって、 動悸がしたって、『これがオレの生きている姿なんだ。 文句あっか』と思うといい」とか「私の好きな宮本輝という作家も君と全く同じ病気。 価値のある立派な人がなる病気だと私は思う」と話したりしている。Aさんも病気がよく なれば私の所には来なくなるだろう。それが悲しくもあり、医師としての喜びでもある。

その人との出逢いに運命的なものを感じさせられる存在を人誰しも持っていると思う。 私が県立中央病院時代に出逢った患者のBさんは、そのような一人であった。Bさんは、 循環器科病棟に入院していた四六歳の女性(当時)で、トイレ歩行も困難な程の重症の 心臓弁膜症を患っていた。この人がある時から腹痛を訴え出し、消化器科の医師に精査してもらったが原因がわからず、やむなく各種精神安定剤や鎮痛剤を試みたが効きめがなく、ついには月何十本もの麻薬のモルヒネの注射を受けていた。しかし、それでも痛みのコントロールは不可能であった。食止めにして点滴だけで栄養を取る方法も試みられたようだが、やはり効きめがない。当時私は医師になって二年目で、研修医として循環器科病棟に配属されたばかりであった。科長回診に従いていって、初めて出逢ったBさんの峻しい表情に私は強烈な印象を受けた。怒り、諦め、苛立ち、哀願……ありとあらゆる複雑な感情がその表情にこめられていた。私は主治医にBさんの腹痛にアプローチさせてくれるようにたのんだ。医師や看護婦が彼女の訴えに真剣に耳を傾けていないように思われたし、漢方薬なら何とかなるかもしれないという期待もあった。病状の把握が難しく治療は困難を窮めたが、漢方薬開始後、麻薬や鎮痛剤の投与は一切不用となった。しかし、腹痛の訴えはかなり執拗であった。一年にもわたる腹痛が簡単に治るはずはなかった。Bさんのベッドのわきに腰を下ろし、彼女の話に耳を傾けるのが私の日課であった。心臓弁膜症による心不全症状が出たのが二十代、その頃手術を受けたが症状の改善に至る程の効果はなかった。結婚をしたが、子供をつくるのは医師から止められた。ずっと入退院の繰り返しで、夫に妻らしいことは何一つしてやれなかった……。そのような話をしている最中にも痛みのため顔は歪んでくる。Bさんのお腹をさすってあげながら話を聞くこともあった。こうして何回か訪室するうちにBさんの顔も次第に穏やかになり、ある時から私を笑顔で迎えてくれるようになった。腹痛の方も次第に軽くなり、三、四ヶ月でほぼ軽快した。そしてその頃私も、他の病棟に配属替えとなった。

その後何ヶ月かして、Bさんが腹痛を再び訴えるようになったと聞いた。漢方薬が止め られたことと、ある看護婦の心ない対応(「本当にあなたお腹が痛いの」と言ったこと)が その原因であったと思っている。私はBさんのことが気懸りで、県立中央病院を辞めたあと も何度か見舞った。私を見た瞬間、彼女の顔がパッと明るくなり笑顔がこぼれる。しかし、 やはり腹痛で苦しんでいた。私はもはや主治医でも何でもなく、ただ彼女を励ますことしか できなかった。その彼女も悲しいかな今はこの世の人ではない。心不全が悪化し昨年の夏亡 くなってしまった。事情があって彼女を自分の病院で看取ってあげられなかったことは、 痛恨の極みと言うほかはない。しかし、Bさんとの出逢いから私が学んだことははかり しれないものがある。自分はどのような仕事をすべくして生れて来たのか、どのような医師 であるべきかを、Bさんは笑顔で私に語ってくれるのである。私は彼女の笑顔を生涯忘れな いだろう。

私は自分が勤務した病院で機会ある毎にBさんのことを話して来た。ベットサイドに腰を 下ろし患者と同じ眼の高さで、患者と等身大の人間として話し合うことの大切さを訴えている。 何故私がこのようなことを強調するかと言えば、私自身生れながらにして病める者、 障害をもつ者であるからである。母は私を身ごもった時、胆石症を病んだ。その疝痛発作を 止めるために医師が打った一本のモルヒネが私の左眼の視力を奪った。(それが事実かどうか 不明であるが、少なくとも私はそのように言われて育った。) これが実に私の医学と医師との 出逢いなのである。何という刻印を医学は私の体に遺したのか。この障害のために私がどのよう に悲しい少年時代を送ったか、どのように屈辱的な体験をさせられて来たかについては、ここで 述べるつもりはない。ただ、そのことで私は我が身の不幸を嘆いたことはないし、この世に生 を受けたことを悔んだこともない。そのような体験があるからこそ、私は患者の心がわかる のだし、BさんやAさんのような人に巡り逢うことができたのだと思う。眼は一つしか与えられ なかったが心にもう一つの眼を持つことができたような気がするし、本当のものを見て死にた いという生涯の願いも叶えられそうな気がする。医師になって本当に良かったと思っている。


手作りは楽し(I さん筆)

小さい頃、私は「破壊屋」と呼ばれていた。何でも物心がつく頃、家の自転車をまるごと解体 してしまったのだそうだ。当の私には全然記憶がない。ただ、スパナを持ってあちこちの機械類 のボルトを外して回ったことはうっすら覚えているから、自転車を解体したのもおそらく事実なの だろう。三歳か四歳頃の出来事と思われる。こうしたこともあって、私は周囲から将来機械屋に なるだろうと思われていた。その通りにはならなかったが、小さい頃からメカニズムには強い関心 があった。もののしくみや働きが知りたくて、どうしてもそれを分解したくなってしまう。 ところが一度分解したものを元通りに組み立てるのは遥かに難しく、かなりの習熟を要する。 それに挫折し、それこそ分解が破壊に終わってしまうことが多かったわけである。

しかしながら、私は物を壊してばかりいたのではない。ものを作ることにも大いに熱中した。 コマ、竹馬、チャンバラの刀など、遊び道具は大概自分で作った。腰に鉈をぶら下げ、山を歩き回 って材料を見つけてくるのである。極め付きは木の橇であった。適当な木を選び、鉈と鋸と金槌を 使い半日がかりで「愛馬」を仕上げる。郷里釜石はほとんど雪が降らないので、テカテカに固めた 土の斜面を滑るのであるが、傾斜によっては恐怖感を覚えるほどのスピードが出、実に爽快で あった。

このようなわけで、大工仕事や、金属を加工する仕事には今でも関心がある。工房を構え、 レンズや反射鏡を磨き、金属を削り出して手作りの天体望遠鏡を作ったり、自らの力で一軒の家を拵え るのが生涯の夢である。望遠鏡を作るのはもしかしたら実現可能かもしれないが、家はおそらく無理 であろう。昔、近所の棟梁が息子一人を助手にして家を建て上げたのを見て感嘆したことがあり、自分 もいつかはと思ってきたのであるが、それこそ叶わぬ夢であろう。

私は、医者にならなかったら、大工か旋盤工になっていたかもしれないと人に語ったことがある。 それほど私は、ものを作るのが好きだし、ものを作る人々を心から尊敬しているのである。イギリス には家具の修理を専門とする職人がおり、ヴィクトリア朝などの古い家具を修理する仕事が立派に職業 として成り立っている。そのような職人に私は憧れている。いつかNHKの「手仕事にっぽん」という 番組で、壊れた腕時計を修理する職人が紹介されたことがある。折れた歯車の歯の修理の際に、廃品の 歯車の歯を切り取り、それをハンダ付けして再生するという非常に細かな作業であった。修理が見事に 成功し時計が再びチチチチと動く音がとても感動的であった。また、東京の南部の町工場には、 素晴らしい金型職人や自分の指先でミクロン単位の違いが分かる旋盤工がいる。このような人達こそ、 国の宝と言わずしてなんと言おうか。額に汗し泥や油にまみれてものを作り出す仕事こそが価値がある のだ。もの作りへの関心を失い、濡れ手に泡式の金儲けに走るこの国は一体どこへ行くのだろうか。

大層偉そうな話になってしまったが、もの作りが好きだといっても、私自身は非常に不器用な人間 である。ただ、何故かものを作るのが楽しく途中で投げ出したりしないだけである。小学や中学の頃は 技術の時間が少なく、「手本」通りに作ることを要求されたり、自分の作品を他人と比較されたりする ことがなかった。学校教育には功罪両面がある。自分のもの作りへの情熱が学校教育でスポイルされ なかったのは幸いであった。

いつだったか、病棟の輸液ポンプの把手付きのボルト(ポンプをポールに固定するボルト) を修理する機会があった。プラスチックの把手が割れ、ボルトが曲がっていた。業者に修理を依頼して いるが埒があかないという。それではと修理を買って出た。ボルトの径は九ミリ。ボルトにはネジのピ ッチが異なる二つの規格があるが、そのどちらとも違う特別の規格らしい。曲がったボルトを使うしか ない。万力に一方の端を固定しモンキーレンチで他端を挟み力任せでどうにか曲がりを修正した。把手 には、望遠鏡メーカーののみの市で入手したアルミ部品を使うことにした。精確にセンタリングし、 卓上ボール盤を使ってシャフトに九ミリの穴を掘った。それに垂直にわ き側方から三ミリの穴をシ ャフトに開け、ネジ穴を切る(タッピングという)。把手をボルトに固定するネジ穴である。把手を回 しやすいように四隅にヤスリで円形の切れ込みを入れ、ボルトに横ネジで固定して完成。正味四時間。 久しぶりに創作の喜びを味わうことができた。

私は、このような仕事が全然苦にならない。家でも、ちょっとした修理や障子張り、網戸張り などは自分でする。かくして、女房に「医者をやめても食べていけるわね」と適当におだてられながら 便利屋を務めることになるのである。

 

I wonder how many astronomy manias would know the initial type of my EMS I had released in 1989 in Japan. This Amici-analogue type of EMS was originally made by me before 1980, and my article appeared in November,1982 issue of Sky and Telescope magazine.

Catering to the order of initial type of EMS user, I made a 36.4mm-thread to 2-inch adapter, and I had touching gratitude e-mails from him with some attachment of his moving essays that impressed me so much. I am sorry that I can share them with only those who can read Japanese. But, if you can, please try it to read.

DIY is Fun

From ” My Diary on duty at the Hospital”

Here are the related articles concering to the initial or next-initial EMS.

125ED-BINO & EMS-1

Handy EMS-BINO

A folding wheel chair

You can see the anatomy of the initial EMS in my TV program below.(in Japanese only)

Dream chaser(Challenge to the stereotype…)

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6月5日に、「36.4ネジ(望遠鏡)接続タイプの小型EMS用に、”36.4ネジ→50.8φ差込”の アダプター製作」のご依頼を、岩手県の I さんという方からいただきました。

最初にピンと来たのが、10年以上前に製作したことがあった、箱型のEMS-Sでしたが、よくお聞きしたところ、 それではなく、何と、一番初期のアミチプリズム型のEMSではありませんか。 それをずっと今日まで愛用してくださって いることに加え、最近、代理店さん経由でEMS-ULも追加購入してくださっていました。(左の写真の下の隙間からEMS-ULが少し見えます。) もちろん、今忙しいから・・と、 とても断ることは出来ませんでした。^^;(横のアルマイト未処理のアダプター単体は、当初にお作りしていたPENTAX(105EDHF)用です。)

感激はそれで終わりではありませんでした。 完成したパーツの納品後にいただいたメールには、アダプター製作を 喜んでくださったお気持ちが綴られていたわけですが、添付いただいた以下の2つのワードファイルには 大層心揺さぶられ、I さんに無理を言って、ここで紹介させていただく次第です。

手作りは楽し

ある日の「医師当直日誌」より

どんな職業でもそうだと思いますが、日々の仕事は、ややもすればストレスが溜まるものではないでしょうか。 地道な誠意は伝わりにくく、派手なパフォーマンスをする世渡り上手は脚光を浴びやすかったりします。

しかし、こうしてたまに遭遇する、心の琴線に響く client との出会いが、歩き続ける元気を与えて くれるのだと実感させられます。 振り返ると、実際そうでした。

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初期(と準初期)のEMSに関係した日記とリポート

125ED-BINOとEMS-1

Handy EMS-BINO

折りたたみ式車椅子

また、以下のテレビ番組の中でも、初期のEMS(正立ミラーシステム;EMS-1)の内部構造を分解してお示し しています。

夢をつむぐ人々(常識への挑戦・・)

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人生はうたかたの夢。初期のEMSを開発してから、あっという間に過ぎ去った時間が折り返した頃には、私はすでにこの世に いないか、いたとしても、もうこの仕事はしていないでしょう。 想い出も、またかかわった人たちも、いずれは消えて行く宿命 ではありますが、臨終に思い出すであろう甘美な出会いに恵まれたこと(多分これからも)を改めて幸せに思います。

Grip Strength-18 (握力:記録更新-16)

It is a commemorative day today!
I have just exceeded 80kg’s gripping power on the right hand.

People often ask me “Why are you trainning your grip strength so seriously?” It is difficult to explain it in a word or so, but I think a man should be strong also in the physical strength. A new-born baby is said to be enough strong in the grip power so that it can hang from a bar, and even a dying man would grip back the hands of beloved families. Yes, grip power is important all through our lives.

It is believed that our ancestors were on the tree in the ancient days. Yes, we were far more strong than we are, and I believe that we still have a potential of the physical abilities of our remote relatives in the tree.

Gibbon and Tigers
Gibbon and Children
Gibbon’s Attack
A shot in my youth

やっと右手が80kgを越えました。 長いトンネルでしたが、(自己流の)トレーニングの方法は間違っていなかったようで、 当面は今後も同じやり方を続けてみます。

「なぜ、そんなに握力を鍛えるのですか?」とよく問われます。 一言では答えられませんが、少なくとも自分にとっては、”握力”は大切なものです。 生命力を実感し、時にはPASSIONの捌け口でもあります。 昔の精神主義のトレーニング方法に対する反省と反発、リベンジであり、また独自のトレーニング法の 実験でもあります。

人間、生まれ落ちた時の握力は相当なものだそうで、手だけで何かにぶら下がれる握力(つまり母親の腹にしがみ付いて落ちない握力)を持っているそうです。(そのままチンプやゴリラに 育てられたら、また強くなるのかな??^^;) そして末期に家族の手を握り返したりもします。

私たちは樹上で進化し、強くなりました。 全ては物を握ることから 始まったのです。他のヒト科の類人猿は300㎏以上の握力を持つ者が多く、必要がなくなったと言ったらそれまでですが、私たちの現状は、あまりにも機能を 眠らせ過ぎていないか?と思うわけです。 力を使わず、食べることだけは飽食に過ぎ、いろんな現代病の原因になっています。 「病みたくなければ、食べるな!」、 「しっかり食べたければ鍛えろ!」というのが私の健康維持に関する持論です。^^

Gibbon and Tigers
Gibbon and Children
Gibbon’s Attack
A shot in my youth

Grip Strength-3 /(握力:記録更新)

 

The record is renewed today. I seem to have come through the slump.

ようやく記録を更新しました。 70kgが現実味を帯びて来ました。

因みに、私は若い頃より腕相撲で負けたことはほとんどありません。 まあ、アームレスリングの専門家にはかなわないでしょうが、一般人及びそれに 毛が生えたくらいの力自慢には負けません。

1985年の夏、私はアラバマ州の地方都市に住んでいた米国人の友人宅に2週間ほど滞在していました。 友人は身長190cm以上(体重90kg)でアメリカ人としても大柄な男でしたが、当時身長167cmで体重が56kgくらいしかなかった(ボディビルをやる前)私に腕相撲で 歯が立たなかったのが不思議でならなかったようで、現地のあらゆる力自慢を私に挑戦させました。 6人くらいが私に挑戦しましたが、私は無敗でした。 友人の親友(大工)に身長190cm以上で体重が130kgくらいの大男がいて、友人は彼に「おい、こいつと腕相撲してみろ。 お前が見掛け倒しだっていうことが分かるから。」と 挑発しましたが、結局彼は私との対戦に応じませんでした。

ただ、一人だけ怪物的な男がいました。 前後しますが、友人が「自分はあらゆる階層の人とわけ隔てなく付き合っていることをお前に見せたい。 これから訪問するお宅は、これ以上はないほどの貧しい家庭だ。 しかし心はピュアな人たちだ。」と私に言い、連れて行かれた所は、西部劇に出て来る粗末な家よりもずっと ボロボロの家(小屋?)で、70歳代の老夫婦が19歳の孫息子と一緒に住んでいました。 家長であるおじいさんは、ほぼベッドに寝たきりのようで、気さくで明るい 奥さんが寝室に私たちを案内してくれ、ベッドに上半身を起き上がったおじいさんを見舞いました。 猛烈な南部訛りでほとんど聞き取れませんでしたが、 「こうして個人レベルでは仲良くなれるのに、どうして国と国は戦争をするんだろう?」というような意味のことを話しておられたことは良く分かりました。  ベッドのすぐ足元の壁面の小さい天窓に場末の中華料理屋の厨房の換気扇のような小さい扇風機が、ことことと弱弱しく回っていたのが目に焼き付いています。

前置きが長くなりましたが、孫息子の従兄さん(24歳くらい)がそこに遊びに来ていました。 例のごとく、友人はこの2人の青年にも私に腕相撲を挑戦させました。 19歳の青年は予想通り、何の抵抗もなく私が楽勝。 しかし、アメリカ人にしては小男(170cmくらい)だった従兄は、軽トラックの後輪側をデッドリフトで持ち上げるという 力自慢で、自分も気合を入れて対戦しました。 そのお宅の卓球台のような粗末な食卓テーブルが本当に弓のようにミリミリとしなり、私も彼も完全に本気モードで全力を 出しましたが、結果は私の勝利でした。 小男を馬鹿にしてはいけません。 例外もありますが、一般的に怪力の持ち主は170cm前後が多いのです。 彼は大層悔しがり、私がその家に滞在中にさらに3度私に挑みましたが、いずれも私の勝ちでした。 一般的に力自慢の男は、何度も私に挑みますが、勝敗が覆ったことは 今までに一度もありません。 もちろん私も疲れますが、敗者はさらに疲れるので、何度やっても順位は覆らないのです。^^;

19歳の孫息子さんは、不登校だったみたいでしたが、一念発起で空調関係の専門学校に行くんだと言って、私にうれしそうにテキストを見せていました。 私が帰国後、肌寒くなった頃、その孫息子は大量の睡眠薬を飲み、45口径のマグナムに弾丸をフル装填して山に逃げ込みました。 そして数日後、彼は変わり 果てた姿で発見されました。  それを知った時、彼にも従兄さんにも、一度くらいは腕相撲で負けてやればよかったと後悔しました。

何やら、脱線したみたいですが、私の想い出としては、皆関連しているので、書いてみました。

Visiters from Hungary (ハンガリーからの訪問者)

 

Two outland guys stopped at the approach of my shop looking at the display telescope on August 22nd. I just opened the entrance door and invited them into my shop. Then, we enjoyed talkings for a while and they took photos of us and promised me to send the files to me afterward. Here are the photos they sent to me recently.

They were Karate-Man who had come all the way from Hungary to have the Dan-Exam. at the Soke of their sect in Tottori City. They were not serious star gazers but seemed to have some interst in astronomy, too. One of them had “Google Sky” in his smart phone.

先月の22日頃、店のアプローチに置いていたニュートン反射に立ち止まっていた2人の外国人を店内に引き入れました。 基本コーカソイドの外見ながらも、何となく(遺伝子の)遠い因縁を直感した私が聞いてみると、やはりハンガリーの方でした。(これに似た経験を何度もしていましたので・・) 2人とも、空手の昇段試験か何かで、所属流派の宗家がある鳥取市にわざわざ見えたとのことで、空手のことに疎い私は驚きました。 シリアスではないものの、天文にも興味があるようで、一人の方のスマホにはGoogle-Skyがインストールしてありました。

母も交えてしばらく歓談した後、写真を一緒に撮っても良いかと聞かれたので、撮ってもらった写真です。 とかく反故にされ勝ちな旅先の約束事ですが、 帰宅したら写真をメールで送るという約束を律儀に守って送ってくれたものです。 人類の出アフリカまで遡れば皆兄弟なわけですが、ハンガリー人と日本人はそれよりも ずっと新しい時代レベルでの因縁があることを、彼らと会う度に感じます。 因みに、ハンガリー語の文法構造はヨーロッパの諸言語よりも日本語に近いし、名前の表記も 日本語と同じ、名字→名前の順番です。

(数年前に、イタリアの古楽アンサンブルのメンバーと飲む機会があって、メンバーの一人に微妙にアジアの血を感じたので、 遠慮なくそのことを伝えたら、他のメンバーが、「こいつの父親はハンガリー人だからな・・、」と納得げに言っていました。)

The Real Eye-Relief (真のアイレリーフ)

Today, I would like to propose the issue of the difference between the specced eye-relief and the real one. I would like telescope makers to take it serious and make the most of effort in saving the unwelcome loss of the eye-relief.

今日は、ずっと以前から問題提起したいと思っていたことを書いてみます。
最近、比較的長いアイレリーフを表示しながら、非常に覗きにくいアイピースが多くなりました。特に、光学的に高性能の評価を得ている物の中に多いのが 非常に残念です。 極めて個人的な好みを申しますと、私の場合は、眼鏡装用で楽に視野環が見えないアイピースは、光学性能を評価する以前に却下です。 (それは、90度対空の双眼視を常に前提にしているからだと思います。単眼の場合は、顔を斜めにしても覗けますが、双眼ではきちんとアイピースに正対する必要があるため、 覗く姿勢の自由度が狭まります。)

アイレリーフは、一般的にアイピースの最終面の頂点から射出瞳までの距離を表記するようですが、現実には、そこから差し引かないといけない要素が2つあります。 一つは、アイレンズ側の金枠やアイガード(折り込めず、簡単に外せない部分)の高さです。(アイピースの最終面が凹面の場合は、特に問題になります。)  そして、もう一つは、アイレリーフの眼側の基点が角膜頂点ではなく、 眼の入射瞳だということです。 たとえば、アイレリーフの公称値がたとえ20mm あったとしても、仮にアイレンズの頂点から金枠(アイガード)面までの距離が8mmあって、観察者の入射瞳の位置が角膜から6mm(個人差があります)奥にあると仮定しますと、 20mmから8+6=14mm差し引かないといけないので、残りはたったの6mmということになり、裸眼では十分でも、眼鏡装用のまま視野環を見ることは出来ないことになります。

設計上のトレードオフは理解しますが、金枠トップの数ミリの配慮だけでも、覗きやすさが劇的に変化するので、メーカーさんにはここでご指摘した問題を真剣に 検討していただきたいものです。

(*望遠鏡の射出瞳の位置は、対物レンズの位置(焦点距離)によっても多少変化します。(天体望遠鏡の射出瞳は、アイピースが作る対物枠の実像 なので、対物が短焦点でアイピースが長焦点になるほどアイレリーフは有利に(長く)なる。)
眼の光学的な入射瞳は、房水と角膜が作る瞳孔の虚像なので、解剖学的な瞳孔の 位置とは異なりますが、角膜頂点より奥にあるのには変わりありません。)