懸賞ゲット

広告の掲載に応じていた、地元の進学高校の学校祭のプログラムを月初めに受け取った。

”メガネのマツモト”が掲載してあるのを確認した後、各社の広告を辿ってみたところ、一番最後に某学習塾の 広告があり、懸賞問題が掲載されていた。
2変数関数の最大値を問う問題で、「高校の範囲を超えているのでは?」 と思いながら挑戦したみたところ、確かに、高校のレベルで解ける。 年齢制限もなさそうなので、応募してみたところ、 3人の正解者の一人に認定された。

懸賞はわずか千円分の図書券だったが、原始時代レベルから独学で積み上げて来た 私にとっては金額以上の意義があり、今日受け渡し場所で懸賞をいただいて来た。

 

鳥取ルーテル幼稚園創立50周年

今日は表題の幼稚園の創立50周年の式典(午前中)と祝賀会(午後)に出席するため店を閉じた。   この園には、奇しくも私と娘の親子2世代で現園長の三谷先生のお世話になった。記念すべきこの式典に 招かれたのだから、臨時休業もなんのそのだ。

この幼稚園は、昭和29年に鳥取福音ルーテル教会会堂が建築された時、地域の要望を 受けた宣教師コーレ・ビュー師が、会堂を用いて「鳥取ルーテル園」を開設したのに始まる。 開設当時は日本は 戦後の復興期で貧しく、さらに鳥取大火で鳥取市内は壊滅的な被害を被っており、ノルウェーの教会からの 暖かい支援に支えられて幼稚園は今日に至っている。

式典では、Christianで Gospel Singer の森祐理さん のコンサート、同じく祝賀会でもミニコンサートが開かれ、信仰に裏付けられた美しい歌声と 霊的なお話に惹き込まれた。 特に祝賀会で歌われたAmazing Graceでは 頬をつたうものを抑えられなかった。

最後に50周年記念誌に掲載していただいた拙文をご紹介する。もろびとこぞりて

「モーロビト コゾリテー シュワーキマーセリー ♪・・・・ 」

当時は意味も分からず歌っていた。 多分、先生の説明を聞いていたはずなのだが、その歌詞を 「諸人挙りて、主は来ませり。」と理解するまで長い年月を要した。

末っ子の長男だった私にとって、幼稚園は最初の試練だった。 我が強く先生を独占したいのだが喧嘩は 強くなく、絵だけは上手だったようだが、総じて晩稲で、目立たず大人しくしていたと思う。胸をときめかせた 三谷先生の紙芝居の他、葛藤に悶絶していたことも鮮明に覚えている。

当時は現在のような立派な園舎はなく、礼拝堂が園舎を兼ねていた。お昼寝の時間になると、狭い屋根裏部 屋のような所に上がっていたが、すぐに寝付く園友の傍ら、自分はなかなか寝付けなかった。多分そこは教会の 十字架の尖塔部の中だったのではないだろうか。

中庭も含め、結構ワイルドな遊びも許されていたように記憶する。うろ覚えだが礼拝堂内の片隅に椅子が 大量に積み上げられたような所があり、トンネル状の抜け穴で園友たちが入って遊ぶ中、狭い所が怖い私は 入るのが厭だった。園庭には木登りに好都合な大きな木があったが、私は高い所も怖かった。

気が付くと、一人娘がまたお世話になっていた。三谷先生に親子二世代がお世話になった次第だ。時に 娘も同じ葛藤を経験する様子を見ながら、親も学ばせていただいた気がする。

”もろびとこぞりて”の例えではないが、幼稚園とは、種類の分からない種に水を撒くようなものか なと思った。先生はずっと後の発芽を見届けることなく園児を送り出さないといけない。二世代目の入園 で初めて、親となった園児がどんな芽を出し、どんな木に成長したのかを見ていただけるのかも知れない。 いや、親として子供を園に送り出すことで、真の意味での幼稚園のレッスンが完結するのだろう。

親思う心にまさる親心

毎日地方紙の「おくやみ欄」を見るのは母の仕事だ。 小さな個人商店であっても、数千名の顧客リストの中には、数日おきに 該当者(もしくは家族)が見つかってしまうのだ。

「大変、Kさんの息子さんが亡くなってる!」

Kさん(男性78歳)は30年以上前、累進焦点レンズが市場に出始めて間もない頃の当店で第一号の累進レンズ のお客さんであり、以後ずっとひいきにしていただき、1週間前にもレンズの更新をさせていただいたばかりだった。

温厚で紳士的な人格も印象深く、また役所を定年後に始められた仏像等の木刻の出来映えは、アマの域をはるかに超えて心を動かされるものがあり、 その方より機会あるごとに頂いた作品は我が家の家宝になっている。

ただ、全てのお客さんの慶弔にお付き合いするのは、現実的に不可能であり、弔問はその時の微妙な判断に従うことになり、 お世話になっていながら失礼してしまうこともあるので、その点、この場でお断りをしておかないといけない。

ただ、今回のKさんの場合は、逆縁であることを含めて、何としても弔問に伺わないと気が済まないケースだった。

付き合いの長さから言って、両親が行くのが良いと思い、また道路地図によると、そう分かりにくい場所でもなさそうだったので、 敢えて両親に行かせることにした。

1時間弱で帰って来た母の顔が赤く、泣いた跡が伺えた。逆縁なので、とても涙無しには帰れないだろう。当然目的を果たして 帰って来たと思い、「どうだった?」と私が尋ねると、「行かれんかっただが。もうお父さんはダメだわ。」と母は泣きそうな顔をしている。   車を置いてから少し遅れて店に帰って来た父も、「わしゃあ、もうダメだ。」としょげている。

父母は「お前が行ってくれ。」と言ったが、私は敢えて父を助手席に乗せて行くことにした。役に立たなかった音声ナビゲーターの母は留守番だ。
道中、目印をなるべく父に確認させるようにして走った。父はほぼ理解しているようだが、建物や道路が新しくなっていて 混乱しているようだった。15分ほどで先方宅の近所まで来た。地図を見た段階で車の横付けは無理のようだったので、大きな道路の 脇に駐車し、徒歩で迷路っぽい住宅地の中を探したが、ほどなくKさん宅は見つかった。

万が一間違いだったら大変だと心配したが、玄関先に葬儀用の花が飾ってあったので良く分かった。    玄関の戸を開けると、大勢の親族の方が焼香の間で食事をしておられる様子が伺え、対応に出た女性に 「おじいちゃん」を呼んでいただいた。

Kさんは大変喜んでくださり、大勢の親族の方で満杯であるにもかかわらず、そこで焼香をさせていただくと、ぜひ 作品を見て欲しいとのことで、父と私はKさんに従って奥の部屋に案内された。   その部屋の床の間にはいずれ劣らぬ木刻の作品がびっしりと並んでいた。大体50cm程度以下の大きさの像だが、 恵比寿さん、弥勒菩薩、仁王像、観音像等、どれも緻密な彫りで、全体のバランスもすこぶる良かった。特に観音像の 衣のひだが、とても木という堅さを持った素材から成るとは信じ難い柔らかさと優美さを見せていて、舌を巻いた。

Kさんは、作品の解説をするばかりで、いつまで経っても亡くなられた息子さんの話をされなかった。 敢えてお尋ねすると、やはり癌だった。 20分ほどお話をして、私たちは失礼した。

Kさんは外に出て見送ってくださった。細い路地の曲がり角まで来た時、 振り返ったら、まるで戦場に息子を送り出す老母のように、まだ家の前に立って見送っておられ、私たちの帰り道の方向を腕で示してくださっていた。 立派な体躯のKさんだが、遠かったので、 木彫りの仏像くらいに小さく見えた。
小さくなるKさんの姿に反比して、最後まで涙を見せなかったKさんの哀しみのオーラが、この時一挙に吹き出した のを背中に感じた。

子供さんが目指す高校に合格し、喜んでいた矢先に様態が急変、老親と妻子を残して逝か れた息子さんの無念もその波に混ざっていた。

突然、「親思う心にまさる親心 今日のおとずれ何と聞くらむ」 という、吉田松陰が処刑される前に詠んだ句が 聞こえて来て、目が霞んだ。

日本人「十万分の一の肖像」

今日、知らない方から大きな封筒が届いた。確かに宛名、住所は私に間違いない。
表に、「写真在中」と「折り曲げ厳禁」 のスタンプが押してある。首をかしげながら開封してみた。
写真と添付文書を見て、直ちに事情を理解した。

添付文書

日本人「十万分の一の肖像」

1999年5月から始まった私の自分探しの旅も2001年2月に最後の1200人目の人を東京で無事に撮影して 終了となりました。 その後、膨大な量の現像、プリント作業を2002年の夏までかかって写真を仕上げました。 撮影を快く受けていただいたみなさんに出来上がったプリントをお送りすると言っていましたが、やっと 準備が整い発送する事になりました。

多分写真を写された事さえ覚えていない人もいるかと思いますが、私が感謝の気持ちを込めて焼いたプリントです、 どうぞご笑納ください。

この写真が写真集というまとまった形になるのか今の私には判りませんが、みなさんの お陰でとても素晴らしい経験ができました。

本当にありがとうございました。

河野公俊

東京都***********

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写真家の河野さんは、上記の通り、全国を単身で行脚して1200人のポートレートを撮影されました。 原画は階調が豊かで非常に美しい写真ですが、デジタルに忠実に再現できませんでした。

数年前の写真に感慨がこみ上げました。

現像、プリントにも相当の歳月を費やされましたね。1200人それぞれの人生、想い、また、その編集に携わった 河野さんの情熱に思いを馳せると、胸が苦しくさえなります。

河野さん、ご苦労様でした。 写真集が一日も早く発行できますように、お祈りしています。

甥の結婚式

甥の結婚式のために福岡に行って来た。

ホテルのチャペルでの挙式は最近は多いらしく、ドラマでもお馴染みではあるが、自分には とても新鮮で良い感じがした。親戚、友人にも神官や僧侶がいるので悪いが、訳の分からない祝詞(のりと) やお経を痺れを切らしながら聞いているのより、ずっと良かった。

新婦が若い男性にエスコートされて出て来た。新婦入場だ。   それが、お父さんであることを理解するのに数秒かかった。 予備知識にあった大学教授のお父さんの イメージと結びつかなかったのだ。実際、お父さんもお若かったのだが、結局は自分自身が適齢期のカップルの 親の世代にさしかかっていることに否応なく気付かされた。それらが目まぐるしく数秒の間に頭の中で展開した。

一度鳥取で会っている新婦は、ウェディングドレスに包まれて掛け値無しに美しかった。すらりと伸びた背は お父さんより高かった。新郎もそれに負けずに凛々しく美しく、安心した。

 

新婦入場の後、賛美歌312番を皆で合唱した。

いつくしみ深き 友なるイエスは、
罪とが憂いを とり去りたもう。
こころの嘆きを 包まず述べて、
などかは下ろさぬ 負える重荷を。

途中で声が詰まって最後まで歌えなかった。

 

立派な体格の白人牧師(?)だったが、ややなまりのある日本語が返ってありがたく聞こえた。

聖書の引用は、一般的な「コリント人への第一の手紙、第13章」だった。

“The first epistle of Paul to the Corinthians”
聖パウロがコリント(古代ギリシャの都市?)人の信者に宛てた手紙だそうだ。
(パウロはイエスの使徒だが、もとはキリスト教徒を迫害する熱心なユダヤ教徒であって、イエスの死後に キリストに帰依した。だからイエスの生前の弟子である12使徒の一人ではないそうです。)

1.たといわたしが、人々の言葉や御使いたちの言葉を語っても、もし愛が無ければ、私は 、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
1.If I speak with the tongues of men and of angels, but do not have love, I have become a noisy gong or a clanging cymbal.

2.たといまた、私に預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、また、山を 移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、私は無に等しい。
2.And if I have the gift of prophecy and know all misteries and all knowledge; and if I have all faith, so as to remove mountains, but do not have love, I am nothing.

3.たといまた、私が自分の全財産を人に施しても、また、自分の体を焼かれるために渡しても、 もし愛がなければ、一切は無益である。
3.And if I give all my possessions to feed the poor, and if I deliver my body to be burned, but do not have love, it profits me nothing.

4.愛は寛容であり、愛は情け深い。 またねたむことをしない。 愛は高ぶらない、誇らない、
4.Love is patient, love is kind, and is not jealous; love does not brag and is not arrogant,

5.不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
5.does not act unbecomingly; it does not seek its own, is not provoked, does not take into account a wrong suffered,

6.不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
6.does not rejoice in unrighteousness, but rejoices with the truth;

7.そして、全てを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、全てを耐える。
7.bears all things, believes all things, hopes all things, endures all things.

この辺りまで読まれたと思うが、この章は13節まで続く。

牧師による説教に続き、カップルの誓約、指輪交換、署名、等を経て賛美歌の430番の合唱を経て新郎新婦 の退場を見送った。

披露宴の席は、新カップルのなれそめからして当然ながら、ほとんど**大学医学部の教授や関係者で 占められ、多くの方が温かいスピーチをくださり、突然スピーチを指名されるのを恐れていたが杞憂に終わった。

新婦のお母さんもスラリとした美人で、妙に納得した。 ただ、新郎側の母親の席に座るべき私の姉の姿が 無い事だけが、残念だった。

新郎側の親族を見て、ここでも世代の交代をしみじみと感じた。甥と姪はもとより、一度はかつて”馬” をして背中に乗せた記憶がある、その従兄たちがそれぞれに、立派な医者になり、母親になっているではないか。  3年前の姉の葬儀でも会っているのだが、今回ほどそう感じたことはなかった。    姉はすでにいないが、義兄の親族は私と両親を温かく迎えてくれた。

新郎側に欠けている人はもう一人いた。義父さん(新郎の父方の祖父)だ。十年ほど前に他界され たが、診療医として地元の信頼が厚かっただけでなく、苦学して医者になられたことを裏付ける人格者だった。俳句でも有名で、遠賀野の地には義父さんの句碑が建っている。 句集「遠賀野」は今でも私の書棚にある。句集には姉と義兄の結婚当初の事が詠まれてるものもあり、それからも義父の人柄と慈愛が読みとれる。   元来、眼鏡屋は眼科医にコンプレックスを持っているのだが、そんな私たちにに劣等感を懐かせない配慮をされる方だった。

私の父は、10人兄弟の六男として生まれた。古い家父長制度下で、家に尽くすために生まれたような ものだった。 長男が祖父の後を継ぎ、次男は自宅と地元の百貨店への出店を安堵され、三男は隣の都市に店を 出すきっかけをもらい、四男、五男は戦死、六男が父、七番目は長女だったが幼児期に怪我で死亡、八番目も女で、 末っ子になるはずだった七男に加えて八男が出来たので、八男は親戚に養子に出された。今思うと、祖父の身勝手さには 呆れるしかない。 末っ子の七男を溺愛した祖父は、七男を歯科医にすることにした。二人の息子を戦死させた ことで、何とか末っ子の召集を延ばしたいと考えたのだろう。

父は、結婚後も本家の時計の修理部門を主に担当していた。 現状で将来の希望がないことを感じた父は、祖父に 言った。「独立させて欲しい。」
祖父は「経営というものは大変なんだぞ。仕入れから、経理のことまで、お前に出来る訳が ない。家という木の幹を太らせてこそ、枝や葉が茂るのだ。」と言った。
その後、また父は言った。「それならせめて、時計部門を 私に任せてください。でないと将来の希望が持てません。」
それに対しては、祖父も「まあ、お前の立場からすれば それもそうだな。今度長男に相談してみよう。」と言ったものの、その後の祖父からの返事は、「長男がいやだと言っている。 今となってはわしも強制することはできん。」というものだった。
父は誰の力も借りずに、ほぼ無一文で独立することを決意した。
家を出ると、本家には、翌日にはもう他人の修理技術者が入っていたという。

両親は、母が独身時代に勤めていた材木会社から材木を安く買い、それをリヤカー(人力)で運び、壁土を練って空き地を借りて 平屋を建てた。ショーケースもウィンドウも無い、時計修理屋としてのスタートだった。  前置きが長くなったが、長姉の事を話す前に、両親のスタートの経緯をどうしても話しておく必要があるのだ。

私は長姉より五つ年下なので、貧しさの記憶はさほどないが、長姉は両親の苦労を肌で知っていたようだ。

周囲の反対を押して独立した両親の困窮と不安は半端なものではなかった。子供が病気になったら大変だということで、 父は銭湯で、湯から上がると、厳冬期でも、長姉に足洗い用の冷水槽の水を頭から被せた。父は呆れ顔の他の入浴客の視線を 感じながら自分も冷水を被ったと言う。それが功を奏したかどうかは知らないが、長姉は小学校の6年間、一日も 学校を休まなかった。
長姉は物心付くと家事を手伝った。踏み台に乗って料理の手伝いさえした。ある時、煮え立ったみそ汁の 鍋を前にして、長姉はたすき付きのズポンを履いていた。
振り返り際に、たすきが鍋の柄にひっかかり、煮えたぎるみそ汁は 容赦なく幼女の背中を襲った。重度の火傷を負いながらその時姉が叫んだ言葉は、「熱い!」ではなく、「ごめんなさい!」の泣きながらの連呼だった。  「家族の食事をだめにした事しか頭に無かった。」と私は姉から直接聞いている。背中のケロイドは徐々に縮小したが、名刺の半分くらいの 大きさのケロイドが肩胛骨の辺りに勲章として最後まで残った。

私が産まれた年、まだ明るい内に私を銭湯に連れて行っていた母が銭湯の窓から遠くの空に一筋の煙を見た。 川向こうのようなので、気の毒だと思いながらも その時は気にとめなかったと言う。 それが鳥取大火であった。昭和27年のことである。被災人口2万人以上、焼失面積160ヘクタール、焼失家屋5000戸以上の 大火災だ。 本家とは徒歩で5分とかからない距離ながら、父は火元に少しでも近い本家の家財の退避の手伝いに行き、母は幼児を3人(私と次姉と長姉)かかえて ただ泣きながら右往左往していたという。近所の人は「松本はなんと剛胆なんだろう。この期に及んで何も家財を出さないんだから。」と噂していたそうだ。   本家の家財の搬出は出来たが、やがて火の手は本家にも至り、本家は焼失した。 ぎりぎりの所で自宅は助かったが、父が本家の家財の持ち出しに使用していた自転車が、どさくさで盗まれてしまった。  当時では運搬道具としては、軽自動車くらいの意味があったものだ。もちろん、本家は知らん顔だった。

長姉は勉強も良くした。貧しかったので、一度も塾の類に行った事もなく、家庭教師にも付かなかったが、学業は常にトップだった。  中学くらいになると、両親も長姉には一目を置いていたようだ。 ただ、この頃から医学部に入る頃までの姉は 少々自己中で気難しい所もあった。 闘病中の姉にこの頃の事をメールで話題に出すと、「胸が痛むからやめて、すまなかったと思っている。」と言っていた。   姉は奨学金を受け、家庭教師をしながら国立大の医学部を卒業した。姉の教え子は何人も医者になっている。   私もたまに姉に勉強を習ったが、私がしつこく質問するので、たいていは喧嘩になった。

今振り返ると、姉が人間として成長したのは、結婚し、子供が出来てからではないだろうかと思う。   さらに闘病の末期にピークに達し、ついに人を越えて昇天したのではと思える。

末期には次姉が何度も松江から福岡まで通って献身的に介護した。 それには次姉の夫の深い理解が背景にある。   次姉の夫は長姉の医学部時代の同期生だった。 姉が入院していた癌病棟の主治医には私は良い印象を持っていない。  姉はきゃしゃな体格で、またその軽い体重以上に薬品に敏感であり、抗ガン剤の影響も強かった。何度も投薬量の調整を 依頼したが、担当医は「80歳過ぎの婆さんでもやっているのに・・・」と全く取り合わなかったと言う。

案の定、姉は抗ガン剤の過度な副作用で危険な状態になり、初めて担当医は慌てた。 やがて肺に水が溜まるようになり、見かねた次姉の夫が自分が院長を勤める松江の 病院に長姉を呼び寄せ、そこで奇跡的に少し改善する。一時退院し、次姉の家にも滞在し、次姉の愛犬のお産にも立ち会った。

長姉は最後は福岡で逝ったが、最後の1か月は母が付いた。しかし、父は少し前に切迫心筋梗塞で手術を受けており、その間、次姉夫婦が松江で父を預かってくれていた。   長姉は、自分が医師として出発した頃に子育てで数年間勉強を離れて非常にマイナスだったので、自分のために子供の人生を狂わせることを 徹頭徹尾拒んだ。 だから、自分の娘に「介護のために大学院を休学してくれ。」などとは口が裂けても言わなかっただろう。   ただ、命の終焉を迎えて、どんなにか心細かっただろうと思う。長姉は介護する母に言ったという。「妹を産んでくれててありがとう。」
どんな苦痛にも弱音を吐かなかった長姉だが、一度だけ、まだ鳥取にいた母の携帯に泣きながら電話をかけて来た事がある。それも、一見些細な事だった。 部屋に備えていたナプキンが無くなったというのだ。義兄は心から姉を愛し、献身的に尽くしてくれていたが、やはり介護には女手も必要なのだろう。  その頃、姉の癌はそこらじゅうに転移し、大腸も閉塞して人工肛門になっていた。
その時の母の狼狽ぶりは今でも鮮明に覚えている。母は直ぐに長姉の自宅の前のKさんに泣きながら電話を入れた。夕食時だったにもかかわらず、 Kさんはナプキンを買うと、姉の病院まで車を走らせた。同じ北九州でも、病院までは片道1時間もある距離だった。Kさんの消防士のような素早い対応に 私たちは鳥取の空の下で泣きながら手を合わせていた。
必ずしも体調が万全でない夫と、人と同じくらい賢く、人への依存度の高い愛犬を家に残して、長期に渡って何度も姉を介護した次姉夫妻の 犠牲は計り知れないものがあった。 次姉は母に言った。「姉ちゃんは幸せだよ。これだけみんなに惜しまれ、愛されて逝く。私の時には誰が見てくれる と思うの。」 次姉には子供がいないのだ。
次姉は闘病末期の姉に聞いた。「お姉ちゃん。今一番大切なものは何。」
長姉は小さい声で答えた。「患者さん。」
長姉は体力が続く限り自分の患者も診続けていた。
まさに鉄の意志を持った医師だった。

医者になるのも難しいが、人間になるのはもっと難しい。 これから結婚する者にはそれが言いたい。

昔の日本人は滅私の心を持っていた。「滅私」とは、「滅私奉公」の滅私だ。
あの蜂谷弥三郎さんもその典型だ。蜂谷さんの体験は、どうしても旧ソ連での抑留体験に視線が集まるが、関連著書をいくつか読ませていただくと、 ソ連での体験をされる以前に、すでにそれこそ橋田壽賀子さんの「おしん」に匹敵するほどの波乱と苦悩に満ちた 人生を歩んでおられる。 真田紐を作る工場を経営していた蜂谷さんのお父さんは、発明の才があり、5本の 紐を一緒に織る機械を考案し、生産革命をもたらしたが、親族を含む同業者の猛反発を受け、破産にまで追い込まれた。

蜂谷さんが小学校2年の時だった。私たちから見ると、破産後のお父さんの行動は、一度頂点を極めながら脱落した人が辿り勝ちなように、 決して良い夫、父親のそれではなかったように見える。再起のために蓄えた金を投機に手を出してすってしまい、しばらく家に帰らなかったりした。
立ち直ったお父さんが蜂谷さんを除く家族と朝鮮で暮らしていたころ、蜂谷さんは日本で安定した職に就き、将来を誓う伴侶も決めていた。  当時、体調を崩しかけていたお父さんからの渡鮮の要請に躊躇しながらも、長男としての自覚から、蜂谷さんは久子さんと共に 朝鮮に渡ることを決意する。

その後の概略はテレビでも紹介されている通りだが、ここで言いたいのは、蜂谷さんが被って来た 試みは、全て身から出たものではなく、自分よりも他を思いやる心、つまり滅私の心が図らずも招いたものだった。   朝鮮に渡った動機もそうだが、安岡という卑劣漢に同情し、自宅に招いたことが蜂谷さんの運命を決定付けた。

しかし、どんな逆境の時でも、ごく一握りの清い魂が蜂谷さんのそばにいたことに私たちの心は救われる。酷寒の収容所で 汚物にまみれて死を待つほどに衰弱して異臭を放つ、他の日本人の囚人でさえ近寄らなかった蜂谷さんを気遣ってくれた中国人の年輩の囚人がいたし、強制労働に出る時には 一人で歩けない蜂谷さんを両脇から支える朝鮮人の囚人がいた。また、目をかけてくれ、自宅で食事にまで招待してくれた収容所長。そして、救いの女神クラウディア。  蜂谷さんやクラウディアさんの体験談を読むと、人の魂の輝きの評価に、時代も場所も国籍も宗教も関係ないことが断言できる。

私の父の事も、事実を客観的に述べたが、父自体は大火の時の行動が証明しているように、本家を恨んだりしていない。 付き合いは現在まで普通に続いている。 ただ、父が困窮の渦中にいた頃は、親戚は近寄らなかった。   私の3歳の節句の時、誰も祝いに来ないのに業を煮やした父は、なけなしの金をかき集め、店屋で一番 大きな鯉のぼりを買って帰った。 家の谷間の小さな庭で、鯉は泳がなかった。

個人の自由を圧迫していた古い家父長制度から開放された私たちだが、振り子は 適正位置で止まらず、曲解された過度の個人主義が蔓延し、どんどん反対側に振れて行く気がする。家内は私を世界一親孝行な息子だと言うが、そうではない。  私はただ人間になりたいと思っているだけた。 イエスは言った。「あなたの右の手が盗みをするなら、その右手を切り落としなさい。」と。    私に最終的に残るのは髪の毛くらいかも知れない。

2004年3月1日

斜位テスト

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斜位については、去年の1月2日(斜位矯正)にもコメントしておりますが、  今回はそのチェック法につきましてご説明します。

原理は極めて簡単で、上のチャート(拡大表示する)を赤、緑のフィルターメガネで見れば良いのです。  フィルターメガネは、お近くの文具店でカラーセロファンを購入して、ボール紙等で作ったメガネ枠に貼り付けて ください。右眼に赤、左眼に緑を貼りますが、それぞれの補色がほぼ消えて見えるまで枚数を重ねます。   これを装用して数メートル(部屋の都合で適当で良し)離れて見て、赤いクロスが緑のリングの中心に見えていたら合格です。 赤いクロスが左にずれていたら外斜位、右にずれていたら内斜位です。一般的傾向として、強度の近視の方は外斜位が多く、遠視の方は内 斜位が多いようです。   両眼をつむって開けた瞬間にずれていれば、斜位の傾向がありますが、直ぐに中心に戻り、日常も疲労感がないのであれば、悲観することは ありません。

手作りフィルターでは完璧な検査にならないかも分かりませんが、テストの原理は理解していただけると思います。   単純に言いますと、赤いクロスが中心からずれていたら、プリズムを使用してセンターに戻してあげれば良いのですが、水平方向、特に外向きの 斜位の場合は自己補正が介入しやすいので、簡単には行きません。

他人を調べるもっと簡単で大雑把なテストは、被検者に検者の右手の人差し指の爪を見させ、検者は左手で被検者の右眼を覆い、その 手を外します。
顕著な外斜位があると検者の手で覆われた眼は勝手に楽な眼位を取るので、検者が手を外した瞬間に眼球が外からくるっと回って目標に向くのが 観察できます。
斜位には、上下、内、外の他に、回転斜位もあり、それ用のチャートがありますが、回転斜位だけはプリズムでは補正できません。

双眼望遠鏡の光軸や眼位との兼ね合いについての議論が掲示板等で時々見られますが、解答は私のHPで繰り返し ご説明している通りです。機械的な誤差よりも眼の癖の方がはるかに大きく、機械的精度剛性だけを追求するのは無意味です。   大切なのは、眼の癖を介入させないテクニックを覚え、合理的な調整装置の使用法を理解することです。その方法につきましても、 私やBINO自作経験者のHPで詳しく説明していますが、そう難しいものではありません。

また、やや完璧な光軸を逸脱した双眼望遠鏡を覗くことの影響につきましても、心配無用であることは、眼の生理を含めた総合的な 理解から断言できます。眼への影響は、常時装用する掛けメガネの方がはるかに大きいですが、視線は常にメガネレンズの光軸を外れて動き回り、 特に左右で度数差がある場合(特に遠近両用)は、常に左右の眼が異なるプリズム量を通して物を見ることになりますが、それでもメガネと して成り立っている事は周知の通りです。仮に眼に悪影響をきたすほどの光軸ずれが双眼望遠鏡にあれば、とても長時間覗き続けられるものでは ありません。

EMSの種明かし

それでは、お約束通り、EMSの種明かしをさせていただきます。

まず、EMSの光路は、立方体を3つ直列に繋いで出来る正四角柱の1側面の一つの頂角 から同じ側面の対角に至る最短路です。 ただし、経路は他の3面を通るものとします。(1図: 赤い線が光路、青い線がそれぞれの反射点での反射面の法線)

EMSを手前から見た時、視線に垂直な平面に投影した第1反射光線(2つの反射点を結ぶ直線)の傾斜角を α とすると、tanα =1/√2(白銀比)ですので、規格 紙の対角線の傾きと同じです。このαは、x-y調整ノブの配置の位置角にも重要な意味を持ちます。

さらに、β=2α こそ、EMSのユニット間のねじれ角で、cosβ=1/3 というシンプルな数字で表されます。

α、β の2つの角度がEMSを決定する重要な要素ですが、これらの角度は、B5,A4等の規格紙から完璧に再現できます。

Folding Wheel Chair / 折り畳み式車椅子

(In English; 6/16, 2014)

Folding Wheel Chair

I would like to share with you an unforgettable experience in my work.

It was seven or eight years ago when I received a phone call from the first customer asking “Do you have an “EMS-L” in stock? I would like to buy it at your shop and take it home.” And he asked in the end, “Is your shop on the ground floor? And can I get into your shop in the wheel chair?”
I simply thought at that time he had a wound on his leg or something.

A few days later, a car stopped in front of my shop. I immediately thought it must be he, and went up to the side of the car to find I was right. Alas!! he drove all the way from Kobe in the specialized car with his hands only!

Then I guided his car to my parking space, and I will see what I am really amazed by. The guy stopped his car at the right place and then fully reclined his back rest by 180 degrees and leaned back to seize a folded wheel chair on the rear seat and lifted it to put on the ground just by the opened car door and quickly unfolded the wheel chair just like an umbrella. Then he bundled his legs by a towel and he took his legs just as if they were a luggage and into the wheel chair, and he finally got into the wheel chair all by himself.
What I did was only to take his FS102 Telescope in the case and accompanied him in the wheel chair to my shop.

In my shop, he set up the telescope on the tripod at the lower position with my assistance, and he attached the EMS-L to his telescope and watched the upright and vivid image of the nearby landscape for a while, and saying ” It is nice!!.”, he finally decided to buy it.
Having a pleasant conversations after that, and I can never forget his last word he murmured with a sigh ,”I was right to come!”

It was just after the Hanshin-Awaji Earthquake, and I thought he was the victim of it, but he wasn’t. He told me he had a car accident before the catastrophe and he was on the hard rehabilitation in the hospital when he met the earthquake. He was paralyzed from the chest down and I knew he had gone through unimaginable despair and painful rehabilitations.

Since then I take this story to my heart to keep up my motivation ever to proceed.

ずっと前からお話したいと思いながら、きっかけを逃して来た話をご紹介します。

もう7,8年前になりましょうか。 私の店に次のような電話が入りました。
「EMS-Lを店頭で確認して求めたいのですが、現物はありますか。」という問い合わせでした。
最後に、「店は1階にありますか。車椅子で入れますか。」と聞かれましたので、問題ない旨をお伝えしました。   その時は、脚に怪我でもされたのかな、と思っていました。

数日後、店の前に1台の車が止まりました。 直ぐにあの電話の方であると直感し、店を出て車の前に立つと、 やはりその方でした。 何と、その方は、神戸から特別仕様車をたった一人で、手だけで運転して見えたのでした。

そのまま私はその方を裏の駐車場に導きましたが、私が本当に驚いたのは、その後のことなのです。  その方は、車を止めると、自分のシートを180度倒し、反り返って後部座席に置いていた折り畳み式の車椅子を腕の力だけで持ち上げると、 運転席の直ぐ外にそれを組立て、あれよあれよと言う間に自分の両脚をタオルで縛り、まず両脚を荷物のごとく先に車椅子に納め、 完全に自力で車椅子に乗り込まれたのです。 私がした事と言えば、この方の自作のケースに納まったFS102鏡筒を持って店までお供をした だけでした。

店では、私も手伝って低いポジションにFS102鏡筒をセットし(確かカメラ三脚を使用した)、EMS-Lを装着され、ウィンドウ越しの景色で合焦や 見え味を確認され、大きくうなづいて購入を決断されました。 それからしばらく歓談して、帰り際に、「来てみて良かった。」と しみじみとため息のように言われた言葉が忘れられません。

阪神淡路大震災の直後でしたので、被災によるお怪我かと思い、お聞きしてみたら、その前に交通事故に遭われたのだそうで、 震災は、病院の中で闘病中だったとのことでした。胸から下が全て麻痺されたこと、想像を絶する体と心のリハビリがあったっことを知りました。

以来、何かと理由を付けて行動を保留し勝ちな、私自身への戒めとして、私はこの方の事を心に深く刻んでいるのです。

悪役俳優、Bolo

昨晩、久しぶりに”燃えよドラゴン(Bruce Lee 主演)”がテレビで放映されました。
悪役で登場したBoloの若い姿が懐かしく、彼との希有な出会いを思い出しました。

写真は、1989年に鳥取市で開催されたボディビルアジア選手権のお別れレセプションで撮影されたものです。   鳥取市への同選手権の誘致は、実質上の主催者兼、選手であった小山裕史(やすし)氏(アジアチャンピオン)の世界的な 知名度と並外れた努力と、ボランティアの協力で実現したものです。(同年開催の世界おもちゃ博覧会との関連で市の後援が得られたのも幸運でした)   当時氏のジムのメンバーであった私も通信文の英訳(当時はFAX)や通訳で協力しましたが、大阪空港で各国の選手団を出迎えた ことが、今でも鮮明に思い出されます。

数台のチャーターバスに各国の選手団を乗せるのですが、予算の関係で1国1台というわけには行かず、到着時間が大きく異なる 二国のチームを1台のバスで送るのに、大変な苦労をしました。 (韓国選手団の遅れでイラクの選手団を3時間待たせないといけないはめになった 話は別の機会にします。)

イラクと韓国のチームをやっとの思いでバスに乗せ、これに乗ってやっと一緒に鳥取に帰れると思いきや、 本部からの指令で、私はその後に到着する台湾とパキスタンの選手を乗せて帰ることになったのです。

台湾とパキスタンの選手団をバスに乗せると、緊張がやっとほぐれ、最後部で隣に座っていたパキスタンのヘビー級の選手とずっと歓談 して帰りました。 その時、台湾チームの中に私たちの会話の魚になった人が一人いたのです。

私    : 「Bruce Leeの”燃えよドラゴン”(Enter the Dragon)を見たことがあるかい?」
パキスタンの選手:「あるけど・・・?」
私    : 「あの人、あの悪役に似ていない?」
パキスタンの選手: 「本当だ、そっくりだ!」

といった具合で、互いの膝を叩き合って大いに笑ったのです。

その話題の主は、台湾のチームリーダーの一人でしたが、喋らず、笑わず、闘争的な体型に乗った牛のごとき首には太い金のネックレスが 巻いていました。 ただならぬ殺気を感じ、まさに”歩く凶器”の印象でした。^^;

それが本物だったことが分かったのは後日のことでした。 本物と分かってからも、しゃべらないし、名刺もくれないし、写真も撮られたくなさそうな雰囲気で、全く取り付く島もない 感じで、結局、香港の俳優だと思っていた彼がどうして台湾のチームリーダーだったのか等も聞けず終いでした。   上は、「絶対に笑わせて見せるから、見てなよ。」と同僚のボランティアスタッフに言って、撮らせた写真です。彼が最初にして最後に見せた笑顔です。    ともかく、地で行く華麗な悪役俳優でした。名刺はくれなかったけど、ボランティアスタッフ用の私の赤い法被の背中に、 大きな字で”BOLO”と書いてくれました。

ともかく、地で行く華麗な悪役俳優でした。

(写真を勝手に掲載したので、殺しに来るかな?)

Red- Green Test

RG rays in the eye
Red-Green chart

私たちの眼は、生体として、光学器械が真似の出来ない 生理的な機能を備えていることは事実ですが、純粋に光学的に評価しますと、 高級品ではないことを認めざるを得ません。

眼科での眼底写真の撮影等のために、散瞳剤(瞳を広げる薬)を点眼されて、しばらく苦労された経験がおありの 方も多いと思いますが、私たちの眼は、絞り開放では、まったく使い物にならないほどの甚大な 球面収差を持っています。

また、色収差も甚だしく、この性質を利用すると、眼の微妙なピントのずれを比較的客観的に 検知することが出来るのです。

上のレッドグリーン指標でご自身の眼を試してみてください。(まずは単眼で検査した方が分かりやすいでしょう。)黒い二重線が赤のバックと緑のバックで比べて、 どちらがはっきりと見えるでしょう。輝度やコントラストの差に幻惑されないように、線(隙間)のシャープネスだけに着目します。 両方とも大きくぼかしてしまうと、区別が出来なくなります。

また、特に初めての方は、ピントの前後をセットにして、レッドとグリーンのシャープネスが逆転する様子を見ないと分かりにくいかも知れません。 近視のメガネを掛けている方は、メガネを外し、遠点(はっきり見える一番遠い距離)付近でチャートに微妙に近付いたり離れたりして見ると レッドとグリーンの見え方(シャープネス)が逆転するのが分かるでしょう。

読書距離で見て、明らかにグリーンの方がはっきり見えたら、老視の赤信号^^;です。 (近視の方は、メガネを掛けて見てください。)
指標を拡大して3m以上離れて見た時に 赤い方がはっきり見えたら近視です。 また、読書距離で両方ともはっきり見える方でも、距離を近付けて行きますと、調節限界付近 からグリーンの方がレッドよりもはっきり見えるようになります。
また、3m以上離れて見てグリーンの方が極端にはっきり見える方は、近視のメガネの度が強すぎるか、遠視である可能性があります。
横線(縦線)だけがはっきり見えたら、乱視の疑いがあります。

波長の長いレッドは波長の短いグリーンよりも焦点距離が長いので、それぞれの結像位置が微妙に異なることが、この検査を 成り立たせている理由です。(上の図は、弱度近視の状態です。)

眼の屈折に関与する角膜、房水、水晶体、硝子体の組み合わせは、残念ながら色収差の軽減に対する(神様の^^;)配慮は全く見られません。 もっとも、明るい所では縮瞳(瞳が小さくなること)して極めて小口径であり、散瞳するのは暗い時で、眼の視力も落ち、色盲になっている(低照度下で活躍する旱状体視細胞は色盲) ので、アポは必要なしとのことなのでしょう。