ある日の「医師当直日誌」より(I さん筆)

先週、外来に出ている時、二六歳の青年が診察を受けに来た。一年前から胸痛、 動悸、喉頭狭窄感等の症状があり、近くの病院にかかっていたという。父の交通事故死 などのショックもあり、会社もほとんど休みがちであった。病院でいろいろ精査したが 特別の異常もなく「精神的なものでしょう」と言われ精神安定剤等の投与を受けていた。 診察してみて確かに不安神経症的な病であろうと思われた。カルテの住所を見るとH市で ある。勤務先も確かK市で盛岡と関係ない。「どうして当院へいらしたのですか」と訊く と、県立中央病院時代の私のことを聞いて来たのだという。私はすっかり感激してしま った。医師冥利に尽きるとはこのことである。患者さんは有難いものだとつくづく思った。 H市から医大や県立中央病院へ行くのでなく、そこを素通りしてはるばるこの盛岡の外れの地 まで来てくれる……。その患者の心を想い責任の重さを痛感しないわけにはいかなかった。
その晩、県立中央病院時代のことをあれこれ考えた。当時の受持患者は今の四分の一 以下。検査や外来で忙しかったが、患者と話す時間も結構多くとれた。心身症のよう な患者もいて、ベッドサイドに腰掛けて話し込んだり、家族や職場の上司と面談した りしたものだ。入院している高校生の勉強がおくれるのが気の毒で数学を教えたりも した。確かに「手のかかる」患者達で、努力が実を結ばないこともあったが、無駄な 苦労をさせられたという感じはない。彼等は私に医師としての道を指し示してくれ たという想いが強い。
初心忘るるべからず
私を訪ねて来てくれた青年の顔を思い浮べながら、改めてそのことを肝に銘じた次第。

(1987年8月3日)

日誌に書いた二六歳の青年Aさんは、その後もキチンと二週おきに通って来てくれ ている。漢方薬が効いたのか症状も軽くなり、会社にも行けるようになった。 「胸が苦しくったって、 動悸がしたって、『これがオレの生きている姿なんだ。 文句あっか』と思うといい」とか「私の好きな宮本輝という作家も君と全く同じ病気。 価値のある立派な人がなる病気だと私は思う」と話したりしている。Aさんも病気がよく なれば私の所には来なくなるだろう。それが悲しくもあり、医師としての喜びでもある。

その人との出逢いに運命的なものを感じさせられる存在を人誰しも持っていると思う。 私が県立中央病院時代に出逢った患者のBさんは、そのような一人であった。Bさんは、 循環器科病棟に入院していた四六歳の女性(当時)で、トイレ歩行も困難な程の重症の 心臓弁膜症を患っていた。この人がある時から腹痛を訴え出し、消化器科の医師に精査してもらったが原因がわからず、やむなく各種精神安定剤や鎮痛剤を試みたが効きめがなく、ついには月何十本もの麻薬のモルヒネの注射を受けていた。しかし、それでも痛みのコントロールは不可能であった。食止めにして点滴だけで栄養を取る方法も試みられたようだが、やはり効きめがない。当時私は医師になって二年目で、研修医として循環器科病棟に配属されたばかりであった。科長回診に従いていって、初めて出逢ったBさんの峻しい表情に私は強烈な印象を受けた。怒り、諦め、苛立ち、哀願……ありとあらゆる複雑な感情がその表情にこめられていた。私は主治医にBさんの腹痛にアプローチさせてくれるようにたのんだ。医師や看護婦が彼女の訴えに真剣に耳を傾けていないように思われたし、漢方薬なら何とかなるかもしれないという期待もあった。病状の把握が難しく治療は困難を窮めたが、漢方薬開始後、麻薬や鎮痛剤の投与は一切不用となった。しかし、腹痛の訴えはかなり執拗であった。一年にもわたる腹痛が簡単に治るはずはなかった。Bさんのベッドのわきに腰を下ろし、彼女の話に耳を傾けるのが私の日課であった。心臓弁膜症による心不全症状が出たのが二十代、その頃手術を受けたが症状の改善に至る程の効果はなかった。結婚をしたが、子供をつくるのは医師から止められた。ずっと入退院の繰り返しで、夫に妻らしいことは何一つしてやれなかった……。そのような話をしている最中にも痛みのため顔は歪んでくる。Bさんのお腹をさすってあげながら話を聞くこともあった。こうして何回か訪室するうちにBさんの顔も次第に穏やかになり、ある時から私を笑顔で迎えてくれるようになった。腹痛の方も次第に軽くなり、三、四ヶ月でほぼ軽快した。そしてその頃私も、他の病棟に配属替えとなった。

その後何ヶ月かして、Bさんが腹痛を再び訴えるようになったと聞いた。漢方薬が止め られたことと、ある看護婦の心ない対応(「本当にあなたお腹が痛いの」と言ったこと)が その原因であったと思っている。私はBさんのことが気懸りで、県立中央病院を辞めたあと も何度か見舞った。私を見た瞬間、彼女の顔がパッと明るくなり笑顔がこぼれる。しかし、 やはり腹痛で苦しんでいた。私はもはや主治医でも何でもなく、ただ彼女を励ますことしか できなかった。その彼女も悲しいかな今はこの世の人ではない。心不全が悪化し昨年の夏亡 くなってしまった。事情があって彼女を自分の病院で看取ってあげられなかったことは、 痛恨の極みと言うほかはない。しかし、Bさんとの出逢いから私が学んだことははかり しれないものがある。自分はどのような仕事をすべくして生れて来たのか、どのような医師 であるべきかを、Bさんは笑顔で私に語ってくれるのである。私は彼女の笑顔を生涯忘れな いだろう。

私は自分が勤務した病院で機会ある毎にBさんのことを話して来た。ベットサイドに腰を 下ろし患者と同じ眼の高さで、患者と等身大の人間として話し合うことの大切さを訴えている。 何故私がこのようなことを強調するかと言えば、私自身生れながらにして病める者、 障害をもつ者であるからである。母は私を身ごもった時、胆石症を病んだ。その疝痛発作を 止めるために医師が打った一本のモルヒネが私の左眼の視力を奪った。(それが事実かどうか 不明であるが、少なくとも私はそのように言われて育った。) これが実に私の医学と医師との 出逢いなのである。何という刻印を医学は私の体に遺したのか。この障害のために私がどのよう に悲しい少年時代を送ったか、どのように屈辱的な体験をさせられて来たかについては、ここで 述べるつもりはない。ただ、そのことで私は我が身の不幸を嘆いたことはないし、この世に生 を受けたことを悔んだこともない。そのような体験があるからこそ、私は患者の心がわかる のだし、BさんやAさんのような人に巡り逢うことができたのだと思う。眼は一つしか与えられ なかったが心にもう一つの眼を持つことができたような気がするし、本当のものを見て死にた いという生涯の願いも叶えられそうな気がする。医師になって本当に良かったと思っている。